――「支那人は巨人の巨腕に抱き込まるゝを厭はずして・・・」――中野(2)
中野正剛『我が觀たる滿鮮』(政敎社 大正四年)
中野は軍人政治家であれ官僚であれ、また商人であれ「壓制は眞に人心を歸服せしむる所以に非ず、故に壓制家は必ず己れに反抗する者に對し警戒を嚴重にせざる可からず」。ややもすれば「日本人は彼らの狡猾なるを説けども、彼等より見れば日本人も亦餘りに勝手なり」。「日本人悟らずして、朝鮮人支那人を虐使せば」、その報いは必ず日本人に跳ね返ってくるものだ。
「壓制家」という存在は、「實に同胞發展の進路に多大の妨礙をふる者」であり、じつは「今日の所謂對支政策家、海外發展家論者にして、此謬見を抱く者は決して、少なからざるなり」。「此思想は支那一般の地に施されて、支那人をして排日的行動に走らしめ、朝鮮に行はれし、新領土の同化政策を不可能ならしむるなり」。
かくして日本人を「殖民的能力乏しき國民」と捉える中野の視点に驚かされるばかり。だが、それが現代風の人道主義に発しているようなヤワなものではないことはもちろんだろう。何にもまして「大陸經營の雄圖、四海交親の大策」のためであり、「皇國の恩威を普及せしめんが爲」であることは、敢えて多言を弄することもないはずだ。
前置きが長かったが、これからが「滿洲遊歷雜錄」だが、「朝鮮は大陸の玄關なり」と説き起こす。
その玄関の最前線に当たる朝鮮側の新義州と満洲側の安東県とが鴨緑江に建設された大鉄橋によって結ばれ、加えて「六月よりは露支條約に均霑して、國境に於ける關税三分の一の削減も實行せられた」ことで、朝鮮から満州へのヒト・モノ・カネの流れが激しくなった。そこで「朝鮮にて鍛ひし腕を大陸に試み」ようとする実業家が「滿洲一帶を視察する」こととなり、一行に加わり満州各地を旅行し、「比較的に多くの人に會ひ、多くの事物を見聞したり」。この旅行において「見しがまゝ、聽きしがまゝに、自己の感想と判断とを交えへ」でものしたのが、「滿洲遊歷雜錄」ということになる。
中野は「はしがき」を「滿蒙に對する我國の施設如何は、國際國運の消長にも關すべき折柄、或は識者に敎を請ふの序ともなり得べきか」と結んでいる。「滿蒙に對する我國」の振る舞いに、列強諸国が強い関心を示し始めたということだろう。
中野は「滿洲視察の途に上るに先だち豫め在滿洲有志より、不平の有りたけを聽」いたが、先ず持ち出されたのが「外務省の優柔、領事の無能、滿鐵の專橫、都督府の窮屈、さては三頭政治の矛盾、支那官憲の傲慢」である。
朝鮮から鴨緑江を渡って安東県に入ると、「税關の外國人、手荷物を檢すこと頗る嚴にして聊かも假借」しないから、「荷物は澁帶」するばかり。そこでイギリス人税関吏に問い質すと、「最初日本商人を信用せしを以て、其荷物を檢すするにも、頗る寛大の處置を取りたし」。ところが調べて見ると、書類上の記載と実物とが違う。そこで検査を厳重にしたわけだが、「荷物の澁帶は御氣の毒なれど、澁帶せる荷物の中より、續々不正荷物現るゝあるに於ては、之をパスするは甚だ不都合」である。自分たちは「支那政府に雇はれ」て業務の正確な遂行に務めているだけであった、「決して日本人を惱ますを欲」しているわけではない。「唯日本商人の德義を重んぜざること、斯の如くなるは遂に如何ともす可らざるなりと」。かくして「之を聽きたる余は赤面せり」と。
これについて後に朝鮮側の当局者に問い質すと「遺憾ながら事實」と答えたうえで、「日本商人中、別して大阪商人に此種の胡魔化し多きを説明したり」。かくして中野は一部日本商人の無法を嘆く。
安東を発し奉天を目指す安奉線を進む。車窓の風景には「荒寥の趣あり」。《QED》