――「支那人は巨人の巨腕に抱き込まるゝを厭はずして・・・」――中野(3)中野正剛『我が觀たる滿鮮』(政�社 大正四年)

【知道中国 1747回】                       一八・六・仲八

――「支那人は巨人の巨腕に抱き込まるゝを厭はずして・・・」――中野(3)

中野正剛『我が觀たる滿鮮』(政�社 大正四年)

 たしかに車窓から目にする風景は殺風景だが、「此貧寒なる田野の間に活動する人民のみは、甚だ活?にて、鴨緑江の彼方なる鮮人の微弱なるに比すべくも非ず」。彼らは「夏は一葛、冬は一褞袍、否汚れ腐りたる褞袍の上に、又々襤褸を纏ひ、猶且天の寒きに遇へば、其上に臭氣ある毛皮を著け、雪を戴きて怕れず、氷を踏みて怯ぢず、粗食に甘んじて働き續くるなり」。とにかく頑丈でめげない。

 「歐米人は彼等を目して、牛馬よりは高尚にして、且調法なる勞働用の動物と認め」る一方、彼らより少しく富んだ「階級の者を、歐米の物資を招く費消の動物と認む」る。欧米列強からすれば「都合よき四億の者を相手として、著々として其の野心を伸ばしつゝあ」る。人権もヘッタクレもない。金持ちは金持ちなりに、貧乏人は貧乏人なりに徹底して搾り取ればいいだけのことだ。これを宗主国の身勝手という。

これに対し「獨り我國は彼等の爲にと道を説き、彼等の爲に正義を強い」る。「道を説き」「正義を強い」る相手は欧米列強なのか、それとも「四億の者」なのか。いずれにせよ余りにも正しい。正し過ぎる態度だ。だが、挙句の果てが「南方の豪傑に閑却せられ、或は意傲りたる袁世凱の爲に嫌惡せられ」る始末であり、「外交の失敗を重ねつゝあるなり」であるなら、これはもう眼も当てられないというしかない。

おそらく「南方の豪傑」とは孫文ら革命派の流れを汲む国民党系を指していると思われるが、頭山満や宮崎滔天など民間の志士が物心共に身命を賭して支援したにもかかわらず、革命が成就して権力の一角に食い込んでしまえば、後は知らん顔。中華民国の権力を一手に納め、皇帝への途を進む「意傲りたる袁世凱」からすれば東方海上の島国に棲むサルのごとき野蛮人など相手にしたくなし、といったところだろう。アジア主義のなんのかんのと心を尽くそうが、肝心の相手から「閑却せられ」「嫌惡せられ」たら世話はない。「支那にゃ四億の民が待つ」などと大言壮語しつつ発揮した“義侠心”など、屁の役にも立たなかったと言い切ってしまったら身も蓋もないのだが。

アジア主義を高らかに掲げた先人の志を否定する心算は全くない。いや、そればかりか彼らの志の気高さに心動かされるし、大いに称揚したい。『三十三年の夢』を始めとする宮崎滔天の一連の著作の行間から浮かび上がる“誠心誠意”には、よくぞここまでと心が締めつけられる思いがする。だが、その志は日本人の間で通じたとしても、玄界灘を越えた向こうの半島や大陸では、ややもすれば「閑却せられ」「嫌惡せられ」れたのが現実ではなかったか。やがて「南方の豪傑」の代表である孫文は「容共連ソ」を掲げ日本ではなくソ連に急接近し、「意傲りたる袁世凱」は念願叶って洪憲皇帝を名乗るに至る。

そこで考える。はたして日本におけるアジア主義の思想と行動は、実際にアジアに何をもたらし、何をもたらさなかったのか。我が列島を飛び出し玄界灘を越えた後も、アジア主義は変わってはいなかったのか。変質したとして、そのアジア主義は東漸する西欧に対し有効裡に対応できたのか。行動としてももちろんだが、思想として西欧に脅威を与え戦慄させることができたのか。幕末以来の先人の思いを読み重ねた先に浮んでくるのは、どうやら《アジア主義の超克》の8文字ということになりそうだ。

たしかに日本人である中野が欧米人の態度――苦力を「牛馬よりは高尚にして、且調法なる勞働用の動物」、豊かな者を「歐米の物資を招く費消の動物」と徹底して取り扱う――に憤慨することは判る。だがリアルに徹するほどに、欧米人の態度こそ植民地政策を宗主国本位に推し進めるうえでのイロハのイというべきだろう。日本人のように「勞働用の動物」や「費消の動物」に同情していては、植民地経営など残念だが所詮は無理だ。《QED》


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