――「支那人は巨人の巨腕に抱き込まるゝを厭はずして・・・」――中野(21)中野正剛『我が觀たる滿鮮』(政�社 大正四年)

【知道中国 1765回】                       一八・七・念五

――「支那人は巨人の巨腕に抱き込まるゝを厭はずして・・・」――中野(21)

中野正剛『我が觀たる滿鮮』(政�社 大正四年)

 中野の主張を理解する上で、中東鉄道(チタを発し南東に降り、ザバイカリスクで国境を越え、中国側の満洲里、チチハル、ハルピンを経由し綏芬河(ボクラニーチナヤ)で極東シベリアに入りウラジオストックに至る)を巡る日・ロ(ソ連)・中(中華民国)・米の関係を簡単に追っておくことにする。

 日清戦争以前、当時の清国政府の実質的最高指導者であった李鴻章は、ロシアの干渉を要請しても日本との戦争の回避を狙っていたといわれる。敗戦以後、清朝は「連露拒日」を掲げてロシアと連携することで日本に対抗することを目指す。この動きに応じてロシアは、満洲北部経由でウラジオストックに繋がるシベリア鉄道の路線連接を目指した。それというのも、同時期、フランスがヴェトナムを起点に中国南部に繋がる鉄道建設交渉を始めたからだ。イギリスもまたビルマからの中国西南部への鉄道建設を目指す。

 かくて清朝はロシア側の要求を受け入れて、1906年5月末、満洲北部を通過する鉄道建設を許可する見返りとして露清同盟を結ぶ。ここで満洲に関心を懐くアメリからチョッカイを出る。中東鉄道を満鉄と合弁化し国際シンジケートを組織する案や、清朝への売却案を持ち出したが、これを日本側が拒否すると、1909年11月には満洲の路線を国際管理下に置く案を日本、ロシアなど各国に諮った。だが、この国際管理=中立化案に日本もロシアも共に反対する。

 この各国の思惑が交錯する時期の満洲を歩き、中野はモンゴル経由のルートと北満の中東鉄道ルートによるロシアの満州南部への圧力に注意を喚起し、日本の満洲への影響力伸張の中核である満鉄の抜本的改革を主張したわけだ。

 中野の主張に戻る前に、その後の中東鉄道の運命を簡単に見て置きたい。

 ロシア革命前後の混乱期の3年半ほど、中東鉄道はシベリア出兵に参加した各国の共同管理下に置かれるが、日本軍の撤兵をもって終了した。

 ロシア革命成功直後、革命政府は「ロシア帝国が獲得した領土、鉱山採掘権などの利権、中東鉄道の無償返還、治外法権の撤廃」を骨子とする「ソヴィエト・ロシアから中国へのアピール」を打ち出したものの、その後、ソ連は中国国内の三つ巴の対立――孫文の国民党、北京政府の主導権を巡って争いを繰り広げる張作霖と親ソ派の呉佩孚――に乗じて、中東鉄道の経営を中華民国(北京政府)との共同経営下に置くことに成功する。

 日本では、対ソ戦略(=満鉄経営)を巡って我が陸軍側にも皇道派と統制派の対立があったが、同じようにソ連指導部内でも中東鉄道を巡って意見対立が見られた。「中東鉄道はソ連が所有権を継承しているが、帝政時代の他国侵略の道具だったものであり無償譲渡(あるいは売却)すべきだ」と主張していたトロツキー派がスターリンとの権力闘争に敗北したこともあり、スターリンによる中東鉄道の“私物化”が進行していった。

 1932年の満洲国成立後、日本を仲介役に満洲国とソ連の間で中東鉄道売却交渉が進められ、1935年3月には売却に関する「北満鉄道(東支鉄道)に関する「ソヴィエト」社会主義共和国連邦の権利を満洲国に譲渡する為の満洲国「ソヴィエト」社会主義共和国連邦間協定(1935年)」が締結される。

 ソ連にとって“虎の子”の中東鉄道を売却した背景に、日本との開戦への恐怖を指摘する声もある。東支鉄道を手放し対日戦争という東方の不安要因を取り除いたことで、スターリンは安心して西方のヨーロッパに向かえることとなった、というわけだ。中東鉄道運営は実質的に満鉄が担うこととなり、大連から長春までの満鉄をハルピンまで延伸し中東鉄道に連接し、かくして満洲の鉄道幹線を満鉄が押さえるに至ったのである。《QED》


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