――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(7)
上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)
上塚の足は�南(安徽省南部)から?北(江西省北部)に転じた。
内陸の河は往々にして底が浅い。そこで船に繋げた曳き綱を「拉索的」と呼ばれる人足が曳いて遡行する。年老いた拉索的の振る舞いから中国人の生き方に思いを致す。
「老拉索的は三度の食事以外には、朝から晩迄陸に上つて檣の頂上に結び付けた長い曳綱を以て船を牽く」。「可笑しからうが、悲しからうが、俺は綱さへ牽けばそれでよいと云ふ風である。彼は考へるでもなし、悲しむでもなし全く牛馬の如くに動くのみである。強ひて樂しみを求めたら三度の食後に吸ふ煙草位であらう」。月給はスズメの涙ほど。「何の爲めに生きて居るか解らない、支那の下級者には常に此の種の者を見受ける」。
たしかに「何の爲めに生きて居るか解らない」。だが、彼らはそれなりに生きている。
ここで久々に林語堂の『中国=文化と思想』(講談社学術文庫 1999年)を。
「中国人は遊んでいるときのほうが、真面目なことをしているときよりも遥かに愛すべき人間であるように感じる。中国人は政治上はでたらめであり、社会上は幼稚である。しかし余暇の時間には非常に聡明で、理知的である。そして中国人はたっぷりある暇を潰す楽しみをもっているのだ」。かくして中国人は「十分な余暇さえあれば、中国人は何でも試みる」というのだが、その試みを林語堂は書き出す。煩を厭わず書き連ねてみたい。
「蟹を食べ、お茶を飲み、名泉の水を味わい、京劇をうなり、凧を揚げ、蹴羽根で遊び、闘鶏を眺め、麻雀卓を囲み、博打をやり、衣類を質に入れ、なぞなぞをし、花に水をやり、野菜を作り、果樹を育て、囲碁を打ち、小鳥を飼い、人参を煎じ、入浴を楽しみ、昼寝を死、子供の相手になり、お喋りに興じ、食べたり飲んだり、拳をしたり、手相を占ったり、手品をしたり、書道をしたり、芝居を見物し、銅鑼や太鼓を叩き、笛を吹き、怪談話を語り、漬物を漬け、胡桃を手の中で回し、鷹を放し、鳩を飼い、廟を参詣し、山に登り、ボートの試合を眺め、闘牛を見物し、媚薬を飲み、阿片を吸い、町をぶらつき、飛行機を眺め、日本人を罵倒し、白人に好奇の目を向け、西瓜の種を齧り、政治を論じ、お経を読み、深呼吸を行い、座禅を組み、法会を催し、香を焚き、蟋蟀を捕まえ、ワンタンを食べ、盆栽を世話し、お祝いを贈り、叩頭をし、子供を産み、高鼾を立てる」。
林語堂に依れば、中国人は常日頃ここの挙げた60種程で暇潰しを試していることになるが、改めて数えると43番目に「日本人を罵倒する」が“ランク・イン”している。どうやら「日本人を罵倒する」ことは、「たっぷりある暇を潰す楽しみ」の1つらしい。
�南の東北部に位置する寧国府でのことだ。
この街を囲む城郭も構造は雄大だが、「此處も同じく、其の一部局を除いては甚だしく荒廢に歸して居る」。半世紀昔の太平天国の乱によって破壊されたものだ。そんな街とはいえ師範学校があり女学校があり「福音(メソヂスト派)經營の�南中學がある。何れも百餘名の生徒を収容し、新式の�育を授けて居る。佛人經營の天主堂は、城の西南隅、一段高き所白壁嚴として城下を俯瞰して居る」。かくして「歐米人の平和的施設は思つた以上に手が廣まつて居る」。
「安徽の野を西へ西へと進」む。汗でシャツを濡らしながら歩いていると、「佛蘭西人と覺ゆる天主�の牧師が二人、馬を走らせて吾等を追越した」。上塚らを怪訝な目で向ける2人を見て、「此の未開な、不便な土地に分け入つて、一意神の�を説く彼等の宗�的犠牲心に心動かされずに居られ無い」。かくて「ローマンカトリツクの眞�な法服が、丘の彼方に消え失せる迄見送る」のであった。
さらに進む。荷物運びの人足を1人連れただけで旅する天主教の牧師に出会う。《QED》