――「支那はそれ自身芝居國である」――河東(11)
河東碧梧桐『支那に遊びて』(大阪屋號書店 大正8年)
詩人の直感というのだろうか。「氣を靜め思ひを沈ましめる餘裕などありやうはない」「刺戟性の頂點に停滯してゐる」音楽から、民族の「刹那に生きようとする所以」を導き出してしまうのだから。
そういわれて1949年の中華人民共和国以後に見られる主な出来事をザっと振り返ってみると、国内的には建国直後の朝鮮戦争(50年~53年)から始まり、「三反五反運動」(腐敗・不正・官僚主義撲滅運動。51年~53年)、「百花斉放 百家争鳴」(自由化運動。1956年)、「反右派闘争」(共産党批判者抹殺。57年)、「大躍進」(58年)、「三自一包政策」(一定の私有財産容認。62年)、「社会主義教育運動」(修正主義に反対し、修正主義化を防ぐ。63年~66年)、「文化大革命」(66年~76年)、「対外開放政策」(78年~)とジェットコースターのように目まぐるしく変化した。
主要な敵国はアメリカ帝国主義からソ連社会帝国主義へ。1969年にはソ連との国境で大規模な国境軍事衝突まで引き起こし、72年には「偉大なる領袖・毛沢東」が昨日までの最大の敵であったアメリカ帝国主義の“頭目”であるニクソン大統領を北京に迎え、劇的に握手する。
国内の敵は文革初期の劉少奇から林彪、さらには周恩来を経て四人組へ。78年以降になると昨日までは政治の中枢を占めていた毛沢東原理主義者は「極左」と批判・断罪され、社会のゴキブリ扱いを受けお役御免と政治の中枢から放り出される始末だ。そしてなにより78年以降は国を挙げての金儲けに血道をあげ、いまや世界の覇権を目指す勢いである。
建国以降の70年、改革・開放以降の40年を振り返ってみると、疾風怒濤のままに過ぎたこの国と国民に静謐の時はあったのだろうかと疑いたくなるが、よくよく考えれば彼等には静謐の2文字は相応しくない。毛沢東思想絶対の政治の時代(1949~78年)であれ、金権万能の時代(78年~現在)であれ、彼らは「刹那の慾求を充たす心理」に導かれながら「刺戟性の頂點に停滯してゐる」ことを運命づけられているのだろう。
おそらく今後も彼らは「刺戟性の頂點に停滯し」続けながら「不完全な飛行機の搭乘者のやうな心理」が解消されることなく、「氣を靜め思ひを沈ましめる餘裕などありやうはない」人生――そう、只管落ち着くことのない人生を送るに違いない。「中華民族の偉大な復興」やら「中国の夢」が聞いて呆れ果てるのである。「偉大な復興」ならぬ「偉大な不幸」に付き合わされた日には、「神州高潔の民」を目指す身としては正直、堪ったものではない。
だが、その「刺戟性の頂點」に嵌まってしまった日本人もいたのだ。
河東に遅れること3年の大正10(1921)年、芥川龍之介は大阪毎日新聞社の特派員として上海や北京を訪ね、その折の思いを『支那游記』(改造社 大正14年)として発表した。そこに上海での芝居見物風景が記されている。案内役は支那劇通として知られた某新聞社特派員の村田烏江だった。やや長くなるが、引用しておく。
「支那の芝居の特色は、まず鳴物の騒々しさが想像以上な所にある。殊に武劇――立ち廻りの多い芝居になると、何しろ何人かの大の男が、真剣勝負でもしているかのように舞台の一角を睨んだなり、必死に銅鑼を叩き立てるのだから、到底天声人語所じゃない。実際私も慣れない内は、両手に耳を押さえない限り、とても坐ってはいられなかった。が、わが村田烏江君などになると、この鳴物が穏かな時は物足りない気持ちするそうである。のみならず芝居の外にいても、この鳴物の音さえ聞けば、何の芝居をやっているか、大抵見当がつくそうである。『あの騒々しい所がよかもんな。』――私は君がそう云う度に、一体君は正気かどうか、それさえ怪しいような心もちがした」。そうです。判りマス。《QED》