――「支那はそれ自身芝居國である」――河東(9)河東碧梧桐『支那に遊びて』(大阪屋號書店 大正8年)

【知道中国 1851回】                       一九・一・卅一

――「支那はそれ自身芝居國である」――河東(9)

河東碧梧桐『支那に遊びて』(大阪屋號書店 大正8年)

 「時代の變革は、最も民衆に近い藝術に反應する、といふ民衆對藝術觀から言へば」、「支那の自覺は先づ劇に始まる、支那を救ふが爲めには、政治論よりも貨幣論よりも、價値ある芝居の創造を第一にすべきだ。そんな氣もするのだつた」との直感は鋭い。当時勃興した新文化運動を担ったのは、旧い京劇の抜本改革と新しい話劇の振興運動だったのだ。

 「其後北京に出て」、「たしか廣德樓とか言つた寄席類似の小屋で丁度始まつた梅蘭芳の芝居を見に往つた」。旧来からの「生(たちやく)」が主体の伝統舞台に革命の風を巻き起こし、梅蘭芳が「旦(おやま)」を主役とする演目に新境地を切り開き、新たな観客層の開拓に努めていた頃である。

 梅の舞台を「其の容貌、其の肉聲、其の所作は、支那芝居に最も缺けてゐる、最も閑却されてゐる、事相に伴ふ感情の表現を、比較的に豐富ならしめた」と評し、「支那芝居は單に寫實劇に推移するものではない、一人の梅を待つてそれがオペラにも開展して行く可能性を持つてゐる。そんな感想も浮かぶのだつた」と。やがて「そんな感想」は現実化した。

京劇は梅によって「オペラにも開展して行」ったのだ。ペキン・オペラへの誕生である。

 寧波を離れる直前、七塔法恩寺という大きな寺に赴く。「一人の磊落な坊さんが出て來た」。「この僧侶は滅多に人には見せない、自分で樂しんでゐる現世極樂を持つてゐるとの事」であり、その「現世極樂」に案内してもらった。寺の奥まった一角の小部屋がそれだ。

 「中にはいつて見て、私の夢は覺めた、九天の空から奈落の底に突き落とされたやうに、私の空想は叩きつけられた」そうな。それというのも、「現世極樂」の実体が「四方の壁と天井の眞中の明りとを除いた部分とに、一面に鏡をはめて、其のひまひまに、縮緬の派手な切れで作つた住吉踊のやうな瓔珞類似のもの、人形寶石等を飾りつけたもの」だったからだ。極楽などといえたような代物ではない。単なる子供騙しだ。

 「気骨ある、支那僧侶中の出色の人」ともあろうものを、チャチな仕掛けに現を抜かす。「眞面目なのか、それともトボケてゐるのか」。だが、だからといって「この一事を基點として、支那僧侶の思想や道德問題にまで説き及ぼさうとも考へない」。それというのも河東は「『現世極樂』とか『碧落黃泉』とかの文字の意味あひで、人を或る處にまで釣り込む手段の巧妙さを考へずには濟まなかつた」からだ。

 毛沢東の時代を振り返れば必ずといっていいほどに付き纏う「百花斉放 百家争鳴」「大躍進」「愚公移山」「超英趕美」「自力更生」「為人民服務」から始まって、鄧小平の「先富論」に「韜光養晦」、江澤民の「三個代表論」、胡錦濤の「和諧社会」、習近平の「中華民族の偉大な復興」「中国の夢」などなど、「文字の意味あひで、人を或る處にまで釣り込む手段の巧妙さ」は数え上げたらキリがない。

 かくて「支那人の先天的に豐富な芝居氣を享け持つてゐることに想到」した河東は、彼らは「殊更に企むことなしに、それぞれの職業なり地位なりに相應する芝居を演ずる敏感性を持つてゐる」と注意を喚起し、併せて「善い意味に於て、支那人は誰もが役者の素質を具有してゐる。支那はそれ自身芝居國である」と「直覺」するのであった。

 蘇州を歩き杭州を愛で、「私はもう支那の名所舊跡の、たゞ名許りあつて其の實の廢滅した落寞な悲慘な跡を見るに可なり飽いた」。だが、それは河東が日本人だからだろう。

「面白いのくだらないのと明快な判斷を下だすのを辛棒して、さういふ判斷から超越して、たゞぼんやり長袖緩歩で、ノロノロぐにやぐにやしてゐなければ、支那を知る事は出來ないかもしれない。日本のやうな島國の物尺は、支那の大陸には當て嵌らないのかも知れない」。やはり「たゞぼんやり長袖緩歩で、ノロノロぐにやぐにや」でないと・・・《QED》


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