――「支那はそれ自身芝居國である」――河東(1)河東碧梧桐『支那に遊びて』(大阪屋號書店 大正8年)

【知道中国 1843回】                       一九・一・仲四

――「支那はそれ自身芝居國である」――河東(1)

河東碧梧桐『支那に遊びて』(大阪屋號書店 大正8年)

 河東碧梧桐(明治6=1873年~昭和12=1937年)。本名は秉五郎。愛媛県松山の儒者の家に生まれる。中学時代に正岡子規から俳句の手ほどきを受けたことをキッカケに、生涯を俳句の可能性に奉げた。

 大正7(1918)年4月から7月末までというから、五・四運動の1年ほど前に当たるが、河東は4ケ月ほどを掛けて南は広東から北は北京までを旅行している。本書は、その際の前半部分の旅行記である。

 では、なぜ河東はこの時期に旅行したのか。それというのも、「國としての支那、人間としての支那人、それは我等日本人として是非知らねばならない多くの喫緊な理由がある」からだという。そのためには百聞は一見に如かず、である。直に接することで、「我等日本人に何等かの理解と暗示を與ふるものがあると信」じての旅であった。

 なにはともあれ河東は「支那に住みたいといふよりも、支那は私のものだつた、とでもいふ方が適切なのかも知れない」と“告白”する。なんと「私の持つてゐるものと、支那で享けた印象とが、四十幾年ぶりかで始めてめぐり會つた肉親のやうにピタリと一つになつてしまふのだ」というのだから、甚だ奇妙な話ではある。だが河東は「支那」を「伯父さん」と捉えて続ける。

「私の親、それを假に日本とするならば、何事にもコセコセした親に比べては、伯父さんはもつともつと大きな輪郭と内容を持つ抱擁力を示している」。かくして「私の親の持たねばならなくて持つていない大事なものを、私の伯父さんは豐かに持つてゐる、有り餘る程摑んでゐる。それに觸れようとそれを盗まうと、たゞ開け放しに放任してゐる」。

 どうやら河東は「何事にもコセコセした親」に我慢がならないらしく、「日本を訪問しての歸途次、滿洲の平野に來た時、コセついた玩具箱をひつくりかへしたやうな日本はもう懲りこりだ、これでなくちやァ、と言つて室外の高粱畑を飽かず眺めてゐた」と、あるロシア人の話を綴る。

 返す刀で、日本人は「人生觀が不徹底だから人間がコマチヤくれた利巧ぶつた小さいものにしかならない」。それがビジネスに反映されると、「支那の實情に接觸してゐる支店長の措置を、支那の實情を知らない日本の重役が干渉する」ことになる。「會社なり銀行なりが支那に支店を持つにしても、本店から一々指圖しなければ氣が濟まない」。だからまともなビジネスができようもない。

 一方、「支那で事業をしてゐる大きな商店では、目下支那の内地に人を派して各種の利權を獲得してゐる」が、弄する手段は余り褒められたものではない。「早く言へば醜状目もあてられない」といえるほど。総じていうなら「小さな功名を爭ふ日本人的氣分が漂つてゐる」というのだ。

 このような日本人に対し「支那の伯父さんの持つてゐるものは」、「一口で言つてしまへば、人爲的に對する豐富な天然味、それである」。「總てがやり放しな、成るがまゝに捨てゝある、人爲的整理よりも天然的整理に任してある、其の剥き出しな大まかさである」。自然も同じに「無際限な單調、それは天然でなければ示すことの出來ない永遠の沈黙」である。

 彼らは「到底勝つ事の出來ない天然の偉力に對して、絶望的に振舞つてゐる」。確かに、それは「悲慘さ」に満ちてはいるが、その「悲慘さ」に満ちた日々を何事もなかったかのように生きている。

 コセコセと生きる日本からやって来て「これらの天然生理的な大まかさに際會し」た河東は、「この新たな世界の暗示を正當に理解したい心持で一杯になつた」のだ。《QED》


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