――「支那はそれ自身芝居國である」――河東(10)河東碧梧桐『支那に遊びて』(大阪屋號書店 大正8年)

【知道中国 1852回】                       一九・二・初二

――「支那はそれ自身芝居國である」――河東(10)

河東碧梧桐『支那に遊びて』(大阪屋號書店 大正8年)

 河東は長江を望む甘露寺の眺望に満足すると共に、「音もしなければ、動くとも見えない、海のうねりも池の漣も立たない、このノッペラボーな(長江の)水が、人間の力も機械の働きも、容易くはなし得ない、沈黙の活動をしてゐることが、そこに測るべからざる力強さの包蔵されていること」に驚嘆し、納得する。

 甘露寺では、「この附近の豪家の某氏が、この長江での水死人の爲めに、近く大きな施餓鬼をする其の準備に忙殺されてゐ」た。「長江の水死人を考へることが、私に堪らなく詩的な情趣を誘」ったという。かくして「そこに慈悲を及ぼす隠れたる善人のあることが、ソシアルデモクラシー化してゐる支那の現状を裏切る重大なものに思ひ做さるゝのであつた。よし、さういふ施主は、恐らく佛敎的な迷信から出發してゐるとしても」である。

 どうやら河東は「ソシアルデモクラシー化してゐる支那の現状」を余り好ましいものとは見做していないようだ。

 南京の脂粉の街を散策する。

 耳に聞こえてくるのは「遊冶郎の遊冶氣分を唆る」歌声だった。「そこに伴奏する月琴胡弓の低音といふ者を持たない最高音階の樂器が鼓膜を通して肉の活躍を煽つて來る」から、「氣を靜め思ひを沈ましめる餘裕などありやうはない」。

そこで支那の音楽に思いを馳せた。

「音樂が其時の情緒を動かす力を持つてゐるといふことが眞實であるならば、支那の樂器と聲樂とは、たゞ肉を煽動し肉に喝かしめる程度の材料に過ぎなくなる、たゞ肉の伴奏を勤める役目である」ところの「支那の音樂の今日に到つた徑路は、餘處事でなく、支那の無自覺から自覺運動に至る道程を暗示する者ではないだろうか」と。

 「支那の音樂が刺戟性の頂點に停滯してゐる、それでなければ音樂としての價値を持たないといふことに、この私達の味つた寂しさが原因づけてゐるのではないだらうか。帝王になれば國家の安泰、大官になれば位置の安泰、庶民になれば財産の安泰、それらを通じて生命の安泰の絶對に保證されない國柄、そこに四千年の長い歷史を持つた思想、それが因となり果となつて訓致された國民性、それに反抗することも、それから逃避することも不可抗力で壓しつけられてゐる人生の桎梏、それを手短かくつゞめて見れば、不完全な飛行機の搭乘者のやうな心理、そこから湧くドン底の寂寞味が、自然に音樂をも肉的に誘致せしめるのではないだろうか」。とどのつまりは「刹那に生きようとする所以」ということだろう。

 この河東の考えを敷衍するなら、あのけたたましい音楽は「刹那に生きる」ことを運命づけられた中国人の人生にくっついて離れない「ドン底の寂寞味」がもたらすもの。いわば人生の寂寥感を噛み締め自らの内側に閉じ込め昇華させるのではなく、ひたすら外に向かって発散させるためのもの。であればこそ「最高音階の樂器が鼓膜を通して肉の活躍を煽つて來る」ことになるわけだ。

 「刹那に生きんとする心持は、帝王の尊貴を以てしても、どうすることも出來ない自然の運命であつた」がゆえに、「歷代の帝王が、其の先人の墓陵を華麗にするといふことも」、「それによつて我が滿足を買はんとする」からだ。その背景には「其の一時の榮譽を誇示せんとする自我の發揮が基調になつてゐることを閑却することは出來ない」。

 「百千の人を使役し、巨萬の金を散ずる豪快味」は、それが先人の壮大華麗な墓陵建設に投ぜられたにせよ、「美酒佳肴に費やされる」にせよ、「刺戟性の頂點に停滯してゐる」音楽と同じように、共に「刹那の慾求を充たす心理」がもたらすことになるようだ。《QED》


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