――「支那はそれ自身芝居國である」――河東(3)河東碧梧桐『支那に遊びて』(大阪屋號書店 大正8年)

【知道中国 1845回】                       一九・一・仲八

――「支那はそれ自身芝居國である」――河東(3)

河東碧梧桐『支那に遊びて』(大阪屋號書店 大正8年)

 河東が「人心の腐亂した此地」と形容する広州に築いた政府(大総統府)に拠って北京の中央政府と対峙する孫文を、「彼はたゞ其の懷抱するデモクラシーを実現して」、「民衆を覺醒する使命を果たそうとしたのだ」とする。だが「彼の眞意は徹底しなかつた。彼の建設は破壞と認められた。彼のデモクラシーはソシアリズムの色彩を以つて塗られてしまつた。彼の説は一片の書生論を以て迎へられ、彼の主張は常に机上説を以て律しられてゐる」。それというのも「無智な利欲一圖な、言はゞ獸的なソシアルデモクラシーが人心を支配してしまつ」ているからである。

 広州は明るく喧騒に満ちている。だが「其の明るさは亡國の明るさであり、其の騒ぎは亡國の騒ぎ」でしかない。とどのつまり「人心の腐亂した此地」は「獸的なソシアルデモクラシー」に覆われ「亡國の徑路を示しつつある」。

 そんな街で「大總統などといふ空名を擁してをる」孫文は「矢張人間的な弱點」を持つ。だから、「この大局に對して餘りに無智であることを悲しまずにはをれなかつた」。広州を拠点に全土の混乱を正し統一政府を打ち立て「其の懷抱するデモクラシーを実現」しようとする孫文の振る舞いは、「愚擧であるというよりも、寧ろ悲慘な滑稽なのだ」と手厳しい。

 当時の日本には孫文を称え支援を惜しまなかった人々もいれば、北一輝のように批判した者もいた。その凡てに目を通したわけではないが、河東の孫文評を超えるものはないのではないか。「詩人の直感」を遥かに超え、孫文の弱点・限界を見事に抉っているようだ。

 広州の次に訪れたのは「舶來の外國趣味と、土着の支那趣味との交互錯綜する最も濃い混合色を帶びてゐる唯一の土地だといふ」上海だった。

 「上海に於ける工業的先占權が、歐州戰爭の爲めに續々邦人の手に移りつゝある」。「戰爭前と戰爭後とでは、邦人の數は約四倍殖ゑてゐる、それは植民地に於ける常態の無頼の遊民ではなくて、職業の要求する自然の増加である」。

 こうみると上海では確かに日本人が欧州人を圧倒している。だが「植民政策の要訣は、結局金か人かのいづれかを惜しまないのに歸着する」。第一次大戦までイギリス、アメリカ、ドイツが上海で成功したのは「唯金主義であり、又た其の主義を徹底せしめたからだ」。ところが「貧乏で人の餘る日本は、それと對抗し得ないで、今日まで已むなく雌伏の状態にあつた」。「其の有り餘る人を以て」対抗するしかなかった。

 戦後の混乱期を過ぎれば、欧米諸国は必ずや「唯金主義」を掲げて上海に復帰してくる。これに対するに「金を投ずるかはりに人を投ぜよ、は依然として我が植民地政策の第一義であらねばならない」。

 たしかに上海では日本人が大きな影響力を発揮している。だが「それは要するに鬼の留守間の洗濯に過ぎないのだ」。欧州での大戦という「偶然のことが我を洗濯婆さんにした」。だから現に上海で日本人が享受している権益を維持するためにも、やがて必ず戻ってくる欧米勢力と「武者振り勇ましく戰はねばならない覺悟を誰が持つてゐるか」と疑問を呈す。

 「鬼の留守間の洗濯は言はば氣樂な消極的な戰ひであつた」。だが、「(第一次大戦の)講和後の戰ひは、總てが積極的に惡戰苦鬪しなければならなくなる」。であればこそ、「鬼の留守間」に手に入れた「今日の我が先占權を以て難攻不落の要塞的とする成算を講じて置きたいのだ」。

 上海における日本の権益を守る方策について至極まっとうな議論を展開した河東であったが、やはり詩人に戻りもする。上海の「總てが大ビラで、何の取締りも制限もない」姿を「暗�面」としては捉えずに、敢えて「光明面」として迎えようとするのであった。《QED》


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