――「支那はそれ自身芝居國である」――河東(5)
河東碧梧桐『支那に遊びて』(大阪屋號書店 大正8年)
河東は寧波の名刹を巡り、日本と支那の仏教の違いに気づかされた。「一方に順次に支那化して行き、他方が順次に日本化して往つた」と考える。たとえば「今日の支那の僧侶は(中略)、それは體のいゝ乞食に過ぎない」。かくて「昔の名僧知識の學問と氣概、それは支那に五十年目毎にある大洪水で東海に流れ去た」というのだ。つまり「昔の名僧知識の學問と氣概」は「五十年目毎にある大洪水」によって「東海に流れ去」り、日本の仏教が深みを増していったという。これが河東の考えだろう。
一帯の名刹を歩くと、そこここに倭寇による災害の跡を認めることができる。「一旦金碧燦爛を出來上つた佛閣も、それが倭寇によつて灰燼に歸した例は、前後五六回に達する」。こう聞かされると、現代人は間違いなく倭寇の“罪業”を詫びるだろう。だが河東は違っていた。頭など下げるわけもなく、倭寇の時代に想いを馳せ、彼らの振る舞いの雄々しさに憧れるのであった。
「獵人の著るやうな蓑頭巾を肩まで垂れて、腰に四尺の太刀をたばさんだ倭寇の異樣な風俗が、(名刹の)巧妙に反り返った碧瓦の甍の下に立ち塞がつた光景を腦裏に描いて、事は不自然であるにしても、海波萬里を物ともしない壮者の湧き立つた血の脈々と動くのを覺えなければんらないのだ」。倭寇は「海波萬里を物ともしない壮者」だったのだ。
寧波近くの舟山列島の東の端にある小島に向かった時のことである。「埠頭を離れて一歩島の土を踏むや否や、私の脚下には、蓆を展べて物を乞ふ僧が坐つてをり、私の間の前には、其衣の袖をひろげて錢をねだる幾人かの僧が立ち塞がつてゐるのを見出した」。
また、ある名刹でのことだ。その寺の境内の石畳は「塵一本も止めないように掃き清められてゐた」。そこで「穿き汚した靴で、この石疊を蹈むことが憚り多い事にも感ぜられた。大股にのさばつてあるくのさへ氣が咎める程だつた。自然と氣も澄み、尊い匂ひに打たれる、我ながら畫中の人のやうな思ひをしてゐる目先きに、これは又餘りにあからさまに、餘り無造作に、之を見のがすことの出來ない人糞一塊!更らに支那的に現實暴露がこゝに行われてゐるのだ」。
ある名高い廟でのこと。「昔は金碧燦爛たる廣大な建物であつたのであらうが、これも御多分に漏れないで、隨分荒れ果てたまゝ打棄てゝある。廟内の石碑を仔細に見て回っても、やはり康熙帝時代以前の古いものは見当たらないという「悲しむべき結果に了つた」。「支那といふ國は、どうしてかやうに、過去を抹殺するに性急なのだらう」と訝しむ。
かつては文明を輸出した寧波の現在が、これである。それはまた「總てが利己と唯物化してゐる現代の支那」の、偽らざる姿というものだろう。
そこで河東は考える。
「多數の支那人の生活が、未來の理想も、過去の追慕をも切り放した、無自覺な今日主義に魅化されていることが、朽ちも腐りも錆びもしない、固ち永久であるべきである素質の石にまで滲透してゐる」。つまり本来、そこに残されておいてしかるべき石碑すらも見当たらないのは、やはり「無自覺な今日主義」が背景にあるからだ。「たゞ民衆の思想が一切の過去を忘れた時、其の過去の思想が滅亡してしまふやうに、一切の過去の物質も亦た無に歸するのだ。若し尋ねるものゝの見當らない腹立たしさを癒やさうとするなら、先づ今日の民衆の思想を呪はねばならないのだ」と、憤懣やるかたない思いを記す。
歴史や文明の長さを徒に誇りはするが、「民衆の思想が一切の過去を忘れ」ている。そこで「其の過去の思想が滅亡してしまふやうに、一切の過去の物質も亦た無に歸する」。これが現実の姿であると、河東は考えた。そう、この国には過去は存在しないのです。《QED》