――「支那はそれ自身芝居國である」――河東(8)河東碧梧桐『支那に遊びて』(大阪屋號書店 大正8年)

【知道中国 1850回】                       一九・一・念九

――「支那はそれ自身芝居國である」――河東(8)

河東碧梧桐『支那に遊びて』(大阪屋號書店 大正8年)

 紹興で、かの王羲之の「蘭亭序」で有名な蘭亭に遊ぶ。

 修復中だったが、「總てを金ピカに誇張したがる近代の支那一流の行き方と全く別なのも、この故跡には打つてつけだ」と好感を持つ。

 蘭亭からの帰路だった。「原といふよりも、運河が自然にひろがつた水の中に、蓆圍ひの一軒の小屋があ」り、「其のぐるりに數へる程の人數が傘をさしたり、簔を著たりして立ちめぐつてゐた」。

所は紹興。雨中の舞台ときたら、これはもう紹興生まれの魯迅が綴った「社戯(村芝居)」の世界だ。河東は、自らが目にした紹興の社戯の情景を描き出す。

「銅鑼や胡弓の音などが頓狂に、靜かにしつとりと降る雨中を顫はして響き出した。私達の舟の中からも、舞臺に立つてゐる、きらきらする支那芝居の衣装が見えたりした」。「見渡す限り水に滿ちた水郷の空にも小やみのない雨が降つている。總てが物の裏を見せるやうな、冷たい、やるせない、淋しい、寝入つたやうな光景の中に、思ひきつて雜音を響かせる鳴り物と、盛んな、猛烈な、眩しい彩りを持つた芝居の衣装や顔の隈取りが、とつてもつかないコントラストをなしてゐるのだつた」。

 「芝居ならば劇場の空氣、能ならば能舞台の空氣、馬鹿囃子なら祭禮といふお祭りの氣分」があり、その「空氣」「氣分」が舞台の上と客席とを結びつける「仲介者」であるべきを、「こんな水の中に、芝居の舞臺を作つた者の心事からしてが問題になる」と難癖をつける。あまつさえ「當然あり得るコントラストをさへ無視してゐる支那人の氣分は、之を大陸的といふのだらうか、或は事理を解しない盲聾者なのだらうか」と疑問を呈する。

 だが、それは河東の誤解、あるいは思い込みというものだ。水郷で知られる紹興だからこそ、村芝居の舞台は水の上に作られねばならない。水上の舞台で演ぜられる芝居は、その舞台に正対して設けられていたはずの廟に祀られた神様に奉げる酬神戯(ほうのうしばい)であり、たまたま人間サマは神様のお相伴に与かって観劇するという仕組みなのだ。だから、河東の考える「當然あり得るコントラスト」など最初から想定してはいない。「事理を解しない盲聾者」の類などではなく、芝居というものと社会との関係が所詮は違うということなのだ。明らかに河東は芝居を軸として回る彼らの生活文化を誤解していた。  

「油糟を積んだ夜船に、ひどく嗅覺を攪亂されて寧波に歸り著いた夜」、「馬鹿にハイカラな新芝居」という触れ込みの芝居を観に出かけた。だが「芝居の筋こそは新式ではあつたが」、「例の銅鑼や胡弓の囃子方は一切出もしなければ、音も出さない、舞臺装置は、日本の小芝居其のまゝに持つて來たものだつた」。そこで河東は「たゞ寫實といふ以外に何の藝術味もない」ような「無智な片輪な未成品を見せられ」たと落胆する。

だが、ここでも河東は誤解している。彼が目にしたのは日本で新劇に接した留学生が帰国して起こした「話劇」と呼ばれる新しい形式の芝居であり、であればこそ「例の銅鑼や胡弓の囃子方は一切出もしなければ、音も出さない」ばかりか、「たゞ寫實といふ以外に何の藝術味もない」のが当たり前である。勃興期の話劇であればこそ未完成は余りにも当然であり、それを「無智な片輪な未成品」と決めつけるのは酷、あるいは筋違いである。

だが、さすが河東だ。「例の銅鑼や胡弓の囃子方」の音が耳をつんざくような伝統劇の限界と「無智な片輪な未成品」である話劇の将来性に思い至る。伝統芝居は「我が舊歌舞伎が單なる目先の變化に支配せられてゐるやうに、次第に時代と相容れない錯誤に墮落してしまつた。無智な片輪な寫實芝居が、現在に幾分の觀客を惹き得る――形式好きな支那人は、容易に舊慣を破ることに贊成しないにも關らず――所以も亦たそこにある」。《QED》


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