――「彼等の中心は正義でもなく、皇室でもない、只自己本位でゐる」服部(7/16)
服部源次郎『一商人の支那の旅』(東光會 大正14年)
「彼等は不潔である不道�であると思ふが、彼等の世界では不潔でも不道�でも何でもないのだから平氣デ生活が出來る」と続けた後、服部は「日本人は支那人化する必要はないが、支那人の國民性を能く徹底して理解してをらぬと謎の支那になつて仕舞ふのである」と結論づける。
「日本人は支那人化する必要はない」が、「支那人の國民性を能く徹底して理解してをらぬ」がままで過ごしてきたことが、今になっても「謎の支那」のままに終わっている根本的理由だと思う。一知半解は誤解を招き、夜郎自大に突き進み、自らの首を締めかねない。
次いで服部は社会の仕組みについて言及する。
――「支那の地方自治は存外發達してをる」。「國家と社會とは別々である」。中央政府の予算を見ても「所謂軍費を徴収するだけが豫算であつて産業を助長し人民の福利を圖ると云ふころは無いのである」
「土匪は荒櫛であり官兵は梳櫛であると言ふ」諺がある。「土匪の掠奪は幾分目落ちがあるが、官兵になると梳櫛同然虱一匹殘らぬ樣に掠奪して仕舞ふ」から、「人民が略奪に逢ふ場合、掠奪される側から見れば官兵より土匪の方を歡迎するのである」
土匪とは「昔の陸軍中將位が指揮して居る私設軍隊」であり、「山砦に立籠もり、時々掠奪をなし、或は人質を取り或は富豪を脅かし生活をなす」。だから「假令日本が百萬の兵を以て支那を統一せんとしても、各地の土匪馬賊まで鎭壓することは不可能事である」――
であればこそ、「支那騒亂の由て起る國情、之に依つて聊か了解」ということだ。
北京から津浦線で南下し、先ずは「東洋文化の基礎を作つた大聖孔子の墳墓の地」である曲阜を目指した。
車中は南方の戦場に向かうと思われる兵士ばかり。「一般乘客の迷惑は一通りでない。車中は掃除を一つもせぬ埃が煙の樣に立つ中で、彼等兵隊は無造作に手鼻をかむ、唾を吐く不潔此上なし」。「埃と暗�、不潔と不安に鎖された列車」は、やがて曲阜に着いた。
曲阜郊外の孔子林でのこと。「孔子手植の松を見」たのはいいが、「俄に便通を催す」。そこで「近くの樹蔭で用便を濟ました」。じつは北京で郊外の長城を見物した折にも。そこで服部は「(今回の)旅行の記念に而も代表的事物に發糞した」と記す。正直と言えば正直ではあるが、あまり、いや極めて褒められた話でない。
曲阜から霊山・泰山にまで足を延ばす。
山頂への道には「癩患も居る、躄患も居る、不具者乞食の巣窟である」。帰路に立ち寄った大明廟でのこと。「繪畫の陳列會あり、手品師あり、易者あり、落語家あり、各種の見世物や、屋臺店は境内一杯であり、全く人の海で沸き飜て居る、面白半分に三錢で三人が覗鏡を見たら之れは大變である、風俗壞亂の寫眞であり、此境内で公開されるとは呆れて物が言はれぬ」と、一目散にホテルに戻ったとか。
「風俗壞亂の寫眞」で驚くとは、孔子廟で野糞を垂れるほどの人物にしてはウブが過ぎるとは思うが、なにはともあれ「靈場と乞食養成、民間信仰とお祭り騒ぎ等有�なる見學日であつた」ようだ。
曲阜から青島行きの膠済鉄道に乗ると、食堂車内で日本人グループによる「支那經營論に花が咲く」。曰く「日本政府は支那に對する理解が足らぬ」「列國に對して氣兼し過ぎる」「(山東省の風土は日本に酷似しているから)人口政策を以て支那を開拓するより途なし」などの考えで一致しているようだった。そこで服部は、「質の惡いい民は寧ろ來ぬ事を希望する〔中略〕質の良い人なら支那だとて決して排斥するものではない」と考える。《QED》