――「彼等の中心は正義でもなく、皇室でもない、只自己本位でゐる」服部(4/16)
服部源次郎『一商人の支那の旅』(東光會 大正14年)
服部をして「支那の旅の中で何時迄居つても歸り度くないのは此ハルピンより外はない」と言わしめたハルピンは、帝政時代のロシアがアジアとの間の貿易の拡大を狙って建設した中東鉄道(日本では時代によって東清、東支、北満鉄道などと呼称が異なる)の中核都市であり、帝政ロシアが総力を結集して建設したのである。
中東鉄道は、1896年に露清銀行と清朝の間で結ばれた条約によって創業されたロシアの株式会社である。シベリア鉄道の短絡線であり、満州里(現内モンゴル自治区)からハルピンを経て黒龍江省の綏芬河(ロシア名でポグラニーチナヤ)を結んでいた。ハルピンから南下した支線は長春を経て旅順にまで伸びていたが、日露戦争に敗北したことで長春(寛城子)以南を日本に譲渡したことで、この部分が日本の満鉄(南満洲鉄道)所有となった。
中東鉄道は鉄道沿線で広大な土地を押さえ、駅舎を中心に建設したハルピンや大連のような都市における行政を担い、そこではロシアによる治外法権が行われていたわけだ。
ロシア革命後の混乱の中で鉄道管理の指導権を巡って日・米・中・ソが入り乱れ、日本による主導権は米・中の反対で、アメリカによる単独管理は日・英・仏の反対で潰えた。その後、ソ連政府部内の意見対立を経てソ連と中華民国による合弁経営を経て、満州事変を機にソ連との間で交渉が始まり、1935年3月に満洲国(日本)に売却された。
中東鉄道については、この程度に止めておくが、満鉄との関連、さらには満洲における列強の勢力角逐の跡を追う意味からも、「中東鉄道はシベリア鉄道の短絡線として、そして一九世紀末に列強が中国において早い者勝ちで戦力圏を拡大してゆく中で、ロシア帝国が、ロシア極東に隣接する中国東北部の『確保』のために設立した『植民地会社』であった」(『中東鉄道経営史 ロシアと「満洲」』1896-1935)(麻田雅文 名古屋大学出版会 2012年)といった程度の状況は、取り敢えず押さえておく必要があろう。
服部は商売人らしく、中東鉄道を軸にしたハルピン経済の現状と将来性について詳細に論じているが、煩雑に過ぎるので省略しておく。ただ次の点だけは記しておきたい。
「ハルピンの經濟界の中心は、何と云つても東支鐵道である、而して此鐵道の幹部が白露系でありし間は日本として善かつたが、今や支那の獨舞臺と赤露の幹部であるから日本としては誠に容易でない立場となつた」。であればこそだろうか。「一時邦人が六千人程居住して居ました、奥地へも多數邦人が入込み頗る盛況を極めたが、沿線の人は去り、現今では當地も三千三百人に減つた、モー之れが不景気のドン底」だった。
ハルピンを発った服部は、長春を経て大連へ。
当時、「支那の獨舞臺と赤露の幹部」によって経営されていた東支鉄道は、北満の物資を満鉄を使って大連に運ぶより、東支鉄道を使ってウラジオストックに運んだ方が時間的にも経費の面でも安価だと盛んに売り込んでいた。そこで日本側は東支鉄道利用に靡いたようだが、じつは満鉄の方が割安だった。かくて服部は、実情を精査しないままに「東支の宣傳を餘り正直に受ける日本人の弱點」に苦言を呈する。いったい、いつになったら相手の「宣傳を餘り正直に受ける日本人の弱點」は克服されるのか。
大連を去るに当たり、服部は「あゝ! 大連よ爾は東洋一の港灣である、爾は日本の手に依て斯くの如く成長した、日本は爾に依りて滿蒙に文化の種を播く、爾の成功は滿蒙文化の成功である、滿蒙文化の成功はこれがやがて世界に對する誇りである、噫! 大連よ幸爾に多かれ」と感激の程を綴った。
次いで「支那國中で上海に亞ぐ大貿易都市」の天津へ。だが現地や欧米商人に「到底日本商人は勿論對抗出來ぬのである」。その理由はズバリ「薄資」であったからだ。《QED》