――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘20)橘樸「中國の民族道德」(大正14年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房 昭和41年)

【知道中国 2059回】                       二〇・四・十

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘20)

橘樸「中國の民族道德」(大正14年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房 昭和41年)

やはり彼らが積んだ「久しい間の民族的鍛錬」を注目すべきだろう。

橘は「面子を尊重する事」「神の欇理に對する豫想から道德律を守る事」「没法子と云ふ不思議な新意轉換法を體得して居る事」を、「中國人が彼等の道德形式から直接に錬成された三大特色」と考える。

面子に関しては「中國人程勇敢で且つ敏感な人種は他に其の類例を求むる事が出來」ず、面子に対する「強い執着心が民族道德の維持に大いになる貢獻をして居る」と、橘は肯定的に捉える。だが、そのことが彼ら以外の民族にどのような影響を与えたかを考察すべきではないか。そこに踏み込まない限り、片手落ちというものだ。

たとえば今回の新型コロナウイルス問題である。彼ら固有の「民族道德」はともあれ、ヒトとしての普遍道徳に照らすなら、それが故意であれ偶然であれ、自らが犯してしまった過誤に対する謝罪と悔悟の念を持つべきだと思う。だが、たぶん「強い執着心」からだろうが、彼らはそれをしないばかりか、想像を絶するような“鈍感力”を発揮して火事場泥棒外交、あるいはマッチポンプ外交を推し進める。

新型コロナウイルスという火を点け世界を業火に包ませておきながら、口を拭って知らん顔。なんと今度は、医療支援という火消し役に回ろうというのだから、呆れ果てるばかり。しかもG7諸国を中心とする先進諸国が甚大な被害対策に奔走している外交的虚を衝こうというのだから、やはり盗人猛々しいと言わざるを得ない。

それだけではない。喉元過ぎればなんとやら、だ。先祖の墓参りと共に春を楽しむ年中行事の清明節の3連休(4月4日~6日)に、中国政府系の中国観光研究院の推計で4325万人(それでも前年比で約6割減!)が、景勝地として世界的に知られる浙江省杭州の西湖や安徽省の黄山など各地の観光地に繰り出したというのだから、空いた口が塞がらない。

たしかに習近平一強政権は、新型コロナウイルスの感染は抑え込んだと内外に誇示してはいる。だがその強権体制の体裁を取り繕うものである可能性は否定できない。観光地での押し合いへし合いによる濃厚接触は避けられず、それだけに危険極まりない。おそらく4325万人前後の頭の中で、欲望(長期に亘る厳格な移動制限に対する憂さ晴らし)が理性(再流行阻止)を突き破ってしまったのだろう。

「強い執着心が民族道德の維持に大いになる貢獻」したとしても、その「民族道德」が他民族に向かった時にどのように働くのか。この点に関する考察を素通りしてしまう橘の姿勢には、どうにも信頼は置けそうにない。

「道敎固有の應報觀と佛敎から移入された應報觀とは〔中略〕思想の上に根本的な相違がある」が、「中國人は不思議にも此の個人主義的及家族主義的の相矛盾した二つの信仰を同時に受入れ」ることで、「神の欇理に對する豫想から道德律を守」っている。このように、橘は中国人の対応を飽くまでも前向きに評価する。だが、そこに“無原則という大原則”が見られることに、故意か偶然かは知らないが、橘は気づかない。

“無原則という大原則”に則ればこそ、民主主義の上に新を冠しただけの新民主主義などというデタラメをでっち上げ、毛沢東は独裁を強行し、それを社会も許してしまう。

鄧小平に至っては、それまでの常識では相反するはずの仕組みである社会主義と市場経済をくっ付け、社会主義市場経済というバケモノを産み出してしまった。しかも、そのバケモノは、あれヨあれヨと言う間もなく、毛沢東が粒々辛苦の果てに辿り着いた貧乏の共同体である中国を世界第2位の経済大国に大改造してしまった。ならば鄧小平の“大英断”に導かれた中国の経験は、“無原則という大原則”の大勝利と言うべきではないか。《QED》


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