――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘16)
橘樸「中國の民族道德」(大正14年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房 昭和41年)
なぜ橘は「彼等(中国人)にとつて頗る幸福な將來」が、周辺諸民族にとって「頗る幸福な將來」に繋がったわけではないことを語らなかったのか。想像するに彼の関心は「日本人の中國に關する没常識」を明らかにし、「その無思慮な優越感」を批判し、日本人の持つ中国に対する「偏見からの脱却」を説き、「日本人に必要な『中國常識』供給の急務」に応じようとするあまりに、中国を客観的・相対的に捉える視点を持ち得なかったからではなかったか。好意的に考えれば、そうなろうか。
日本も中国も世界の一部であり、共に世界と没交渉のまま、その外側で生存することなどできはしない。地球上で日本と中国のみが存在しているわけではないだろう。こういった関係は往古から未来永劫に続くはずだ。中国が世界を併呑し、その覇権下に置くなどという“世界史的珍事”は――考えられないことを考え尽くしたとしても――起こる事はないはずだ。たとえ習近平がシャッチョコ立ちをしたところで不可能だし、美籍華人(中華系アメリカ人)の大統領が出現したと夢想しても、それはありえないだろう。
たとえば橘の時代にしても、日中関係は共通の理想やら双方の利害得失だけでは図れなかった。濃淡の差はあれ、複雑に錯綜した欧米列強の利害を無視して日中双方の利害得失だけで日中関係を考えることはあまりにも非現実的であり、不可能だった。
昭和に入って以後の橘の言動の分析は他日に譲ることにしたいが、少なくとも大正末年時点での橘には、日中関係に欧米列強という“変数”を加味して捉えようとする姿勢は感じられそうにない。むしろ橘には、「頗る幸福な將來」を絶たれた周辺諸民族への眼差しが必要だった。むしろそうすることで、橘が自らに課していた「日本人に必要な『中國常識』供給の急務」に繋がったはずなのに。
「木を見て森を見ず」の格言を借用するなら、橘は「木を語るに急な余りに森を語らなかった」。とはいえ、飽くまでも大正末年時点という限定付きではあるが。
今回の新型コロナウイルス問題を機に、習近平政権(あるいは以後の共産党政権)が周辺への大攻勢に転ずることも想定しておくべきだ。その時、彼らは「双嬴関係」を掲げるだろう。だが「双嬴」が「彼等にとつて頗る幸福な將來」を企図していたとしても、周辺諸国の「頗る幸福な將來」に繋がらないことは自信を以て断言できる。
以上を踏まえつつ、次は「中國の民族道德」を読むことにする。
先ず橘は「儒敎は上古期の封建時代から中世期の貴族時代に亙つて表面上民族道敎の地位を保ち、多數の歷史家達は其の外見に欺かれ」た結果、「儒敎の思想的及道德的勢力を過大視する傾向がある樣」だ。しかし実際には「單に支配階級の道德たり得たに止り、決して全民族的の規範力を持つて居たとは言はれないのであります」と説く。
後漢末になって、「彼等(民衆)自身の獨立した社會生活が繼續的に營まれる事にな」ったことで、「其處に民衆道德建設の新しい要求が起つて來」た。「此の新要求に應じて道敎及び外來の佛敎が民衆の間に根を下ろし始めたと考えられる」。
その後、宋代に至って科挙制度が徹底したことで貴族階級が力を失い、それに代わって「官僚と云ふ特權社會が形作られ、而して官僚群の特權は中國固有の宗族主義に依つて自然に――法律的ではなく――子孫に傳へらるゝ事とな」った。その結果、「新しい階級が起つて、之が中世貴族の占めて居た支配的勢力を全民族の上に揮ふ事となつた」。
貴族階級は荘園において民衆(農民)を搾取していたが、一面では保護していた。だが貴族階級の崩壊によって、民衆は直接的に官僚特権階層と対峙することとなった。そこで産み出されたのが「家族主義に依る農村社会の組織と云ふ事になる」と橘は語る。《QED》