――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――�田(4)�田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

【知道中国 1949回】                       一九・九・初一

――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――�田(4)

�田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

「同志メーリング」は「五十歳前後の温厚な紳士」ということだが、かつてジャワ島でオランダ殖民地政府経営の鉄道で技師を20年間ほど勤めながら「ジャワの鐵道勞働者の生活權をまもるために鬪い」、労働組合を組織し、「第一次世界大戰後の恐慌時代にこの勞働組合をひきいてジャワで大ストライキを指導し」ている。根っからの社会主義者であり、「大戰後コミンテルンが成立した後は共産主義者としてオランダ共産黨にはいり、ジャワでも共産主義運動をはじめた」というからには、正真正銘の筋金入りの共産主義者だろう。

ジャワで大規模な鉄道ストを指導したり、ジャワ人でコミンテルン執行部入りした先鋭的共産主義者を育てたことから、彼はオランダ殖民地政府から追放処分を受けた後、「すでに三年も上海に住つている」。彼は「中國共産黨の創立にも力をつくし、また上海を本據としての諸國の共産主義者の連絡に缺ことのできない人物となつていたのである」。

「きわめて温好で人ずきのいい人物」で�田を「まつたく自分の子供のように可愛がつてくれた」とのことだが、彼は「獨身で上海に居をかまえ」、「自分の下女として四十いくつになる日本婦人を雇」い、「(彼女は)とてもやさしくて忠實なのだとほめていた。だから特別日本人はなつかしいといつて笑つていた」。だが、よくよく考えれば、この「四十いくつになる日本婦人」は単に「自分の下女」だけだったのだろうか。

「同志メーリング」「四十いくつになる日本婦人」のみならず�田も、共産主義者のタテマエとホンネの落差、シュギに絡めた男女関係の曖昧さに首を傾げざるを得ない。といったところで「四十いくつになる日本婦人」のその後だが、やはり他人事ながら気になる。

�田の旅に戻る。

上海から南京に向かった�田は、途中で太湖に立ち寄った。さすがに共産主義者である。物見遊山ではない。観光名所でも頭に浮かぶのは革命、カクメイ、革命だった。

「太湖は日本の琵琶湖の數倍もあつて、岸邊は高いヨシにおおわれている爲に、かつこうな盗賊のかくれ場所になつているという話だつた。ところが日本帝國主義の中國侵略の後にはバルチザンのよりどころとなつた。戰爭が進むにしたがつて盗賊は次第に押しのけられて中國ソヴエトのバルチザン部隊のきわめて有利な根據地となつたのである。現在でもこの勢力は相當大きなもの」と記す。「パルチザン部隊」も元は「盗賊」だっただろうに。

中国共産党が長江南岸の小さな根拠地を作ったり、「上海で革命勢力がときどき大きな力を發揮できるのも、太湖周辺の湿地帯に重要な勢力集積地があるためと思う」。かくて「こうした大自然を中國革命軍がきわめて有利に使いこなしていることは、われわれにとつて大きな�訓だ」と結論づける。

後に中国に亡命した�田は「北京機関」を組織し、1951年2月の第4回全国協議会(四全協)において反米武装闘争を掲げ、「山村工作隊」「中核自衛隊」によるゲリラ闘争で全国農山村に「解放区」を拡大する方針を打ち出した。一般には毛沢東による中国革命を模倣したと言われる。だが直情径行で多情多感の�田である。太湖が目に入った瞬間、頭の中には荒唐無稽な革命的夢物語が宿ったのではなかろうか。

大きな湖の周辺のヨシが鬱蒼と茂る広大な湿地帯を舞台に、神出鬼没な行動を重ねながら権力と戦う。まさに“『水滸伝』の世界”であり、そこに�田も魅了されたに違いない。 

気の抜けたビールを前に「彼らはこんなにまで節約して苦しい黨活動をつずけているのだつた」と感激したり、太湖周辺に広がる広大な「盗賊のかくれ場所」に「大きな�訓」を得たり。トッキュウという共産主義者は、どこまで行ってもトンチンカンでお人好しの感激屋。憎めないといえばそれまでだが、それにしても脇が甘すぎないかい・・・。《QED》

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