――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(12)鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

【知道中国 1917回】                       一九・六・念九

――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(12)

鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

鶴見が次に訪ねたのが1883年に山西省五台県で生まれ、1960年に台北で亡くなった閻錫山である。彼は1907年に日本に留学し、士官学校の予備校である東京振武学校を経て陸軍士官学校へ。弘前歩兵第31連隊勤務の後、1909年に卒業して帰国。この間に孫文が掲げた清朝打倒の革命運動に参加している。

同連隊が八甲田雪中行軍を敢行し、多くの犠牲者を出したのは1902(明治35)年のこと。ならば第31連隊勤務中、閻錫山は遭難事件についての様々なことを聞いていたことだろう。因みに閻錫山が弘前を離れた四半世紀ほど後の1935(昭和20)年8月、昭和天皇の弟宮に当たる秩父宮雍仁親王が第3大隊長として弘前歩兵第31連隊に着任した。

 八甲田雪中行軍、閻錫山、秩父宮雍仁親王・・・弘前歩兵第31連隊は近代日本、さらには日中両国関係の光と影を巧まずして映し出しているようだ。それにしても日中関係がもつれる渦中で、時代は異なれ同じ兵営で過ごした2人は互いにどのような思いを抱いていただろうか。やはり日中両国の不可思議な縁を痛感しないわけにはいかない。

 1912(民国元)年、閻錫山は袁世凱総統によって山西都督に任ぜられ、同省の政治と軍事の全権を握る。以後、「保境安民」の大方針の下に「山西モンロー主義」と呼ばれる一省自治を貫徹し、豊富な鉱産資源をテコにして工業化を進め、山西省を模範省に築きあげた。

 その後、日中戦争に際しては、国民党、共産党、日本軍と等距離を保ちながら兵力温存に努めている。

 1946年に始まった国共内戦に際しては自軍に山西省に残留した日本軍(暫編独立第10総隊)を加え、人民解放軍と戦ったが劣勢は免れなかった。中華人民共和国建国直前の1949年6月に国民政府で行政院長(首相)兼国防部長に任命されたが、ほどなく広州を経て台湾に脱出。以後、?介石の下で総統府資政(顧問)などを務めたが、晩年は反共主義の立場から著述に専念している。

 閻錫山に関するやや詳しい履歴を綴ったが、彼が打ち立てた模範省の「模範」には、ある思い出がある。ここにも日中の不思議な“結びつき”を感ずるゆえに、もう少し閻錫山について綴ってみたい。

 話は日露戦争開戦前年の1903(明治36)年に発足した「自治協会」から始まる。同協会は2年後の1905(明治38)年2月、静岡県賀茂郡稲取村、千葉県山武郡源村、宮城県名取郡生出村の3村を、「明治三大模範村」として表彰した。模範村運動は明治末期から大正期にかけて、内務省の旗振りで展開された地方改良運動で、中央政府の政策を地方で実施できる有能な吏員、それを在野で支える有志集団(中小地主・上層自作農)を育てることを目的としていたと言われる。

 じつは千葉県山武郡源村で村長を務め、寝食を忘れ模範村運動に打ち込んだ並木家と親交があることから、いまから四半世紀ほど以前に、山西自治運動をテーマにしていた中国の研究者を同家に案内したことがある。

 最寄りの総武本線日向駅から、畑中の道を並木家に向かった。ゆるやかな坂を上り切って冠木門を潜ると、目の前の床の高い豪壮な邸宅の向こうに広大な山武杉の山林が広がっていた。その昔、広い庭に多くの村人が集まり模範村作りに励んでいたことだろう。ご当主の並木さんの弁では、先々代も先代も村人の先頭に立って運動に励んだとのこと。「山西省の吏員が調査に来たことは代々言い伝えられています」「この辺りの景色は、大正の頃と変わってはいないと思います」と言いながら、僅かに残されていた記録を見せてくれた。

 模範村作りのための並木家の奮闘ぶりは、模範省建設にどう生かされたのか。《QED》

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