――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(28)
鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)
清朝末期の開明派官僚の張之洞、曾国潘が去った後、「支那に人なしと痛嘆した」辜鴻銘は、「今日の支那の紛亂を説明して、鉛筆を以て白い紙の上に『定文定武定洋』と書」き次のように説明した。おそらく「完全な英語を以て」。
――「定文定武定洋」は国家を治める要諦の「三法」であり、「定武とは武人を治むるの意であ」り、「完全なる軍隊を組織する」ことを指す。
「定文とは文を治むるの意味であつて、儒生を統制するの謂である」。「定洋とは、今や漸くにして支那の國本を脅かさむとする外國人を定むるの意味である」。「この三者が竝び存して國家その基礎の安泰なることを期することが出來る」。
じつは「支那の主權者が儒生を治むるをことを忘れ、軍人を治むることを忘れたから」、紛糾が止まないのだ。
「凡そ國は『正、能、力』の三者の調和」がなかったら成り立たない。「正とは正當の君主」、「能とは國民の能力、智能」、「力は武力」を意味する。「今支那は共和政を稱」してはいるが、実質的には「正、能、力の調和ある統一なきが故に、國家の中心常に動揺」するばかりだ。だから現状を脱却して「帝政に復活し、正當の君主を上に戴いて、文と武とを兼備へ、以て國家の體裁を爲さなければならない」。この「國民信任の中心」を共和政体は打ち壊してしまった。
じつは「近來民主政治を口にする儒生に至つてはたゞ私利私慾にあつて奉公の丹心がない」。加えて、最近になってやって来る「外國人の多くは眼前の利慾に專らにして國民の幸福に貢献するところの正義の觀念がない」。「僅かに英國人はその心中に高尚なる精神を有つて居る」が、日本などは日々に「明治建國の高貴なる精神を失ひつゝある。憂ふべきは實にこの點に在るのである」。
国家を治めるには「大義名分を先となす」。「第二に、支那の於て國家を安泰ならしむる爲には軍人を治めるなければならない」。「軍人を治むるは國の要道であ」り、「軍人に名譽を重んずる精神を鼓吹しなければならない」。「第三に、國家の武力を統一する爲には優秀な士官をつくらねばならぬ」。それというのも「支那の兵士は訓練なき士官の下に放緃自儘の行動を敢てし、終に國家を顚覆するに至つた」からである――
以上に要約した辜鴻銘の考えを、鶴見は「支那の保守的勢力を代表する意見として頗る徹底した考であると自分は思ふ」と高く評価する。
当時の隣国の言論空間を指し鶴見は「新思想といひ舊思想といふも、六千年の支那歷史に於て屢々繰返されてきた保守急進兩派の爭に過ぎない」とした後、「要は近代支那が辜鴻銘の政治哲學を要求して居るか否かに存する」とした。
その後の推移を振り返るなら、やはり「近代支那が辜鴻銘の政治哲學を要求」しなかったことになる。
だが、皮肉なことに毛沢東に至って俄然「辜鴻銘の政治哲學」を活学活用したようだ。
詐術とはいえ「人民共和」という体裁を整え「大義名分を先とな」し、軍人を治め、「近來民主政治を口にする儒生」、つまり知識人を手なずけ忠実なる宣伝機関とし、「眼前の利慾に專らにして國民の幸福に貢献するところの正義の觀念がない」外国勢力を、国を閉じて国外に放擲し、大陸から一掃してしまった。
要するに毛沢東こそが「帝政に復活し、正當の君主を上に戴いて、文と武とを兼備へ、以て國家の體裁を爲さなければならない」という「辜鴻銘の政治哲學」を実現させた、とも考えられる・・・。たしかに「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」デス。《QED》