――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(37)
鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)
日本においては「歐洲戰爭が齎した經濟組織の變革と、之につゞいて起つた新思想の擡頭」があり、かくして「五十年の明治時代を貫いた政治哲學が、根本から變動してきた」。
これに対し「民國十年の支那史は、内に代議院制度の失敗と、外は歐米日諸國の經濟的壓迫の歷史であ」った。こうして「支那は滿朝末期以上に政治的組織の弛緩を生じ、遂に無政府的状態にむかつて進行しつゝある」。その結果、災い転じて福となるの譬えではないが、「支那人に嚴肅なる思索の機會を與へ、その國民の靈魂の自由を束縛してゐた永き傳統の鎖を寸斷した」。文学革命による伝統への徹底した懐疑である。
同時並行的に「新しき思索の時期を通過しつゝある日本が眼を開いて、いま一度支那を見なほした」。しかも、その時の日本は「偏狹なる國家主義の觀念をもつて價値判斷の尺度とはしなかつた」。「人間といふことの新しき意義を尋討しながら、彼は大なる隣邦の状態を思索し」、「新支那の努力に對して、深い同情と尊敬とを感じた」。「從來の文化の傳統から蟬脱せんとする若々しき意氣に對して、燃ゆるが如き同情心の旺することを覺えた」。自国の利益のみを追求する「外國に對抗せんとする心情」に、「同じ經驗を昨のごとくふりかへる日本人の胸憶に強い任俠心を喚び起さずには居なかつた」。
やがて互いに欧米列強を利用することで相手を押さえんとした方策の間違いに気づき、「暗々のうちに、提携すべく天より運命付けられたる兩國は、(中略)近付いていつた」。
「新しき文化運動の完成のため」、「そのナショナリズムの結晶のため」、「その經濟的獨立の回復のために」、「最後の味方となり得るものは新日本であること」に、ようやく支那は気づくようになった。「支那の再生に對して、最も大なる同情を抱いてゐるものは」日本であり、「日本の後援」があってこそ「支那の再生」が完成することを両国とも忘れてはならない。なぜなら両国は「同じ船に乘つた二人の旅人である」からだ。
「兩國相援の根柢としてあらわれてゐる」のが「日本に於て最近益々著しき國際精神の擡頭」であると見做す鶴見は、失敗した「偏狹なる國家主義」や「從來の方便的日支親善論」を捨て、「國際精神の基礎の上に立つて、新日本と、新支那とは、初めて相扞格することなき交情を建設することが出來る」と見通した。
「新しき支那と、新しき日本とが、國際精神の基礎の上に提携相援するの日は、東洋が新しい光明に遍照することの日である」。「斯くのごとき思想が、支那南北を旅行しつゝあつた自分の腦裏に徂徠してゐた」と綴る。
こうして鶴見は、「眞實なる支那の革新は、日本の革新が完成して後のことである」との「北京の友人李君の言葉」で『偶像破壊期の支那』を閉じた。
ここで突然、米軍最強の中国通で知られたJ・スティルウェル将軍の人生最期の言葉――「きみわからんのかね、中国人が重んじるのは力だけだということが」――が思い浮かんだ。
同将軍は、在中華民国アメリカ大使館附陸軍武官兼蔣介石軍事顧問、中国・ビルマ・インド戦域米陸軍司令官、連合軍東南アジア軍副最高司令官などを歴任し、対日戦争においては最高責任者として蔣介石政権に対する米軍支援作戦を担った。蔣介石を「ピーナッツ」と罵るまでにソリが合わず、蔣介石周辺の底なしの腐敗堕落に憤激し、国民党軍の弱兵ぶりに呆れ果て、毛沢東率いる共産党に中国の将来を期待し、最終的に当時のルーズベルト大統領から解任されている。
「きみわからんのかね、中国人が重んじるのは力だけだということが」・・・はたして鶴見は最後の最後に至って「日本の誠實なる同情」を発揮してしまったのだろうか。《QED》