――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(1)
鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)
鶴見祐輔(明治18=1885年~昭和48=1973年)が群馬県に生まれ、大正末年から昭和初期にかけリベラルな政治家として活動し、戦後は厚生大臣や自由党総裁を務める一方、文筆家としても『母』『子』などの小説、啓蒙的主張に溢れた政治評論集『英雄待望論』などで社会に影響を与える一方、岩波文化人としては正統の部類に入る鶴見和子、異端というより斜に構えた鶴見俊輔の父親であることは知っていた。
だが、『偶像破壊期の支那』を読み進むうちに、鶴見に対する見方が変わった。リベラルな政治家といった一般的形容詞では括れそうにないモノを感じたのである。では、それはどんなモノなのか。その辺りを読み解いてみたい。
「序」は、「われ支那に客遊すること、前後五回、しかも未だ深く心を動かしたることなし」。これまでは「空しく往いて而して空しく歸るを慣はし」としていた。だが「すぐる年の夏、六たび」目の旅を70日ほどかけて行った。するとどうだ。「觸目の山河、ことごとく新粧をもつて我が眼を驚かし、遭逢の人間、我が胸臆に深き印象を留めざるはあらず」というのだ。かくして「我が支那觀は全く昨と異なりたるを知」ることになる。
だが変わったのは「支那の土地」でも「人」でもない。ひとえに「支那を見る我が眼なり」。
「われ甞ては、日本を見るの眼をもつて、支那を見、支那をあざ笑ひたり」。だが、今は違う。「世界を見るの眼をもつて支那を眺め、驚心駭魄す」。では、なぜ見る眼が変わったのか。「支那は日本にあらず。全く異なりたる環境と人生觀をもつて成る國なり」。つまり「支那は日本に取りては『見知らぬ國』」であるからだ。この当たり前すぎるほどに当たり前の事実に、鶴見は気が付かなかった。だから「われ久しく、支那を知れりと思ひ誤りて支那を解せず」。今になって「支那を知らずと思ひ到りて、初めて支那を學ばんとす」。
加えて時代の違いもある。第1次大戦は結果として「ロマノフ王家の廢墟に、勞農政府をつくり、ホーヘンツォルレン王朝を、逝く水の如く流し去」ってしまった。価値観が逆転してしまったのだから、やはり謙虚になって「新しき道を索ぐべき時」なのだ。
「この時にあたりて、吾人は過去を見」た。やはり「東洋文化の淵源として支那あり」。そこで「今更のごとく古代支那の偉大に驚く」のであった。
アヘン戦争以来、「支那の苦しみたること一再にあらず」。いまや国は破れんとする一歩手前と思いきや、じつは「支那は、新しき生に甦らんと」している。なぜなら第1次大戦は「大西洋の隆昌」の終焉を意味し、「いま將に、太平洋の時代は開幕せんと」しているからだ。「太平洋の時代は、東洋民族の時代」でもある。「日本は太平洋の樞鍵を握り」、「支那は太平洋時代の最大因子」である。かくして「いま、兩個の國は、如何なる思想的經驗を通過して、開かれるべき太平洋劇に登場せんとするか」。
どうやら鶴見は、第1次世界大戦によって西欧の時代は終わった。これからは太平洋の時代であり、「太平洋の樞鍵を握」る日本と「太平洋時代の最大因子」である支那とによって拓かれる――と考え、新しい時代の予兆を掴もうと6回目の旅行を企てたようだ。
かくして「われ今、思ふて茲に到り、支那南北の形勢を按ずるに、山河の新粧、人間の新生、芳葩未だ發せずして、春のといき既に地に滿つ。新しき時代の準備は、いま日本と支那の戸口にある」。太平洋の時代には「儉難はあり、窮厄はあり、しかれども、信ある者のゆくべき途は、たヾ進むあるのみ」。
新しい太平洋・東洋民族の時代の到来を前に「支那は、新しき生に甦らんと」していると見做す鶴見だからこそ、旅するのは「偶像破壊期の支那」でなければならなかった。《QED》