――「彼等の中心は正義でもなく、皇室でもない、只自己本位でゐる」服部(1)服部源次郎『一商人の支那の旅』(東光會 大正14年)

――「彼等の中心は正義でもなく、皇室でもない、只自己本位でゐる」服部(1)服部源次郎『一商人の支那の旅』(東光會 大正14年)
【知道中国 2019回】                       二〇・一・念一

――「彼等の中心は正義でもなく、皇室でもない、只自己本位でゐる」服部(1)

服部源次郎『一商人の支那の旅』(東光會 大正14年)

 服部源次郎は大正14(1925)年の「三月二日朝鮮統營を振出しに、滿洲安東を經て北はハルピンより南は廣東に至り、揚子江を上海より漢口まで往復し、上海の大動亂を最後の觀光とし六月十四日に歸鮮を以て(旅を)終」わる。朝鮮総督府より依頼された「露支水産貿易調査」が目的であった。

ここでいう「上海の大動亂」は、同年5月に上海にある日系資本の内外綿株式会社における待遇改善要求運動を機に、誕生間もない共産党指導によって全国大都市に飛び火した反帝国闘争で、上海では5月30日には全市を巻き込んだゼネスト(「五・三〇事件」)に発展している。

ところで著者の服部だが、生没年も出身地も定かではない。ただ『一商人の支那の旅』の冒頭に掲げられている「釜山日報社長芥川正」の「序文」によれば、明治末年に朝鮮に渡り、孤軍奮闘の末に「合名會社の社長として、精米業、海産商及び農事經營もやり、統營の幾多代表事業會社の牛耳をとり、公人としては道評議員、道水産會議員をやり、極めて多忙な人である」とのこと。本書は「露支水産貿易調査」の道すがらに「毎日の見聞を其の儘我社に通信し回を重ぬること實に八十八回に及」び、それを纏めたものである。

結氷する鴨緑江を渡って安東へ。「日は西に落んとし、薄暮沈々、鴨緑江を走る橇の音淋しく聽ゆ、零下五度の寒氣は凛として身に迫る」。

やがて満洲へ。「窓外は一面の雪である。滿目白皓々たる銀世界となつた。風はヒユーヒユーと窓を掠めて音凄しい」。やはり「滿洲の人は常に自然界に征服せられ人力の弱さを體驗して居るから呑氣なのだ、天惠薄い國民は幸かなと思ふた」そうだ。

いよいよ張作霖の本拠である奉天へ。たまたま彼の誕生日に出くわす。当時は「張氏の全盛時代なものだから、〔中略〕支那各省の代表者約三百名程、思ひ思ひ貴重の贈物を携へて祝賀に來た、賓客は千百餘名で代理は許さぬ」ということで、服部も参加した。幸運なことに、北京から駆け付けた天下の名優の梅蘭芳による祝賀公演を間近で観劇している。「容貌は全く女と變はらぬ、口と眼が非常に良かつた」と感嘆の声をあげる。

服部の記した文章を素直に読むと、舞台が跳ねた後で梅蘭芳と親しく会話したようだが、返答内容からして、どうも梅の公式的な家族構成に合致しない。ということは、ニセの梅蘭芳(たとえば「奉天・梅蘭芳」とか)か。はたまた別の役者だったとも思える。だが、当時の張作霖の権勢からするなら、ホンモノと考えられるから、やはり梅蘭芳の公式的年譜は時に眉にツバして読む必要があるだろう。

じつは梅蘭芳は前(1924)年秋に2回目の日本公演を東京(帝国劇場)、大阪(宝塚歌劇場)なで行い、七代目尾上梅幸、七代目松本幸四郎、十三代目盛田勘彌、七代目澤村宗十郎、四代目尾上松助などの歌舞伎大看板のみならず、芥川龍之介、久保田万太郎、山本有三、菊池寛、有島武郎などの文人をも唸らせる芸を披露し、大好評を博していた。

「天下の名優の梅蘭芳」だろうが、当時の張作霖の権勢からすれば奉天まで呼び付けることは簡単だったはず。また役者からすれば日本公演からの帰国直後とはいえ、強大な権力者をパトロンとして弄することが出来るわけだから、奉天までの遠路を馳せ参じたとしても“損”はない。だが、当然だとは思うが、梅蘭芳の公式的年譜ともいえる『梅蘭芳年譜』(河海大學出版社 1994年)の「1925年(民國十四年、乙丑)32歳」の項には張作霖誕生宴での記述は一切ない。また『京劇泰斗伝記書叢 梅蘭芳伝』(劉彦君 河北教育出版社 1996年)、『梅蘭芳全伝』(李伶伶 中国青年出版社 2001年)、『百年家族 梅蘭芳』(李仲明・譚秀英 立緒文化 民國90年)にも張作霖との関係は記されてはいない。《QED》

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