――「彼等の中心は正義でもなく、皇室でもない、只自己本位でゐる」服部(2/16)服部源次郎『一商人の支那の旅』(東光會 大正14年)

――「彼等の中心は正義でもなく、皇室でもない、只自己本位でゐる」服部(2/16)服部源次郎『一商人の支那の旅』(東光會 大正14年)
【知道中国 2020回】                       二〇・一・念三

――「彼等の中心は正義でもなく、皇室でもない、只自己本位でゐる」服部(2/16)

服部源次郎『一商人の支那の旅』(東光會 大正14年)

当時は軍閥抗争の時代であり、奉天派の張作霖と直隷派の呉佩孚の間で奉直戦争が繰り広げられていた。第一次奉直戦争(1922年)では直隷派が勝利したが、2年後の第二次奉直戦争(1924年)では奉天派が圧倒し、張作霖の影響力が強大化した。服部が訪ねたのは、まさに張作霖絶頂の時期に当たる。

「奉直戰ですが、門外漢で委しくは判りませぬが、日本の參謀が軍事顧問ですから、勝敗は日本政府の自由らしいです、張作霖を操つて居るは、確かに日本が巧なのでしよう」。 

奉天から北行するために奉天駅へ。すると「天津方面からの列車が夜奉天に着く、蜘蛛の子を散らした樣に汚れた服装の苦力隊がプラツト一杯になる。女らしいものは見當らぬ、彼等は生活の爲めに、故山を後に遠國に出稼ぎに行くのである。〔中略〕この無妻の勞働者が數十萬人も御得意の滿洲へ年々歳々入込むのである。〔中略〕滿洲の地が如何に廣漠で人口が稀薄であるかを物語つて居る」。

やがて漢族が「廣漠で人口が稀薄」な満州の地を埋め尽くす。それが問題なのだ。

奉天から北上し長春で「午後五時四十分發の吉林列車に乘る」。車中で話した現地事情に通じた日本人によれば、「滿洲の農夫は夏は農業を働き、冬は馬車運搬業を營む、甚麼な者でも馬の五六頭は居りますから、冬だとて決して閑居で居ませぬ。墓碑を樹てると盗まれるから建てぬ、其代り棺は六七寸もある厚板の堅固なものを使ひ土を覆ふ、然るに小兒の死骸は山に棄て犬に喰わせる、犬も喰はぬとは是から出た言葉である等と聞かされた」と。

 ここで少し服部から離れ、かつての中国各地における嬰児死体の“処理方法”について記しておきたい。

 たとえば子供の死体と祟りについてだが、2、3歳の幼児の死体を火葬にした後、野や山に散骨し、風の吹くままに任せていた地方もあった。そうすることが子供に憑りついてしまった禍を取り去ることであり、そこには次に生まれてくる時には絶対に祟りを背負ってくるなという両親の哀しくも素朴な願いがこめられていたというのだ。

 嬰児が死ぬのは妊娠中に悪鬼が憑りつくからであり、その味を知った悪鬼は母親の体内に巣くって次から次へと悪さをし、次に生まれる子供も夭逝することになる。これを「回胎」と呼んだ。ところが、回胎を防ぐ最も効果的な方法があるというからオソロシイ。

戦前の満州を中心に中国各地で民間風俗を調査した永尾龍造は、惜しくも未完に終わった浩瀚な『支那民族誌』の第6巻(但し、国書刊行会 昭和48年復刻)に、回胎防止方法について、「その鬼に憑かれて死んだ嬰兒の死體に、出來る丈け殘虐な處置を施し、子供の屍體に憑いてゐる鬼を威嚇して、二度と來たり憑かうとする氣持ちを起こし得ないように、強度の恐怖心を抱かせること」と書き留めている。やや長い引用になるが、続けて永尾の現地調査報告を記しておきたい。

「滿洲でも支那でも、到る處に幼兒の死體が土中に葬られもせずして野外に放棄され、野犬のあさるが儘に曝されてあり、或いは河岸海岸などに打捨てられてあるのを見られるのである。/

 尤も近來警察制度が發達して、都會の近郊ではこの種の屍體を餘り見なくなつたが、一歩市街を踏み出して田舎に行けば、舊態依然としてこれを見得るのである。しかし屍體を野外に放棄す

る位はまだ結構な方で、甚だしいのになると、刃物の類を以て切り苛なみ、或いは四肢を斷ち、或いは頭から顔面に掛けて、一寸刻みに刻んだものもある。また焼火箸や焼鏝を以て身體中を焼

き、顔面の如き真つ�焦げになってゐるものさへもある」。 

残酷極まりないと思うが、どうもそうでもないらしいから、じつに不思議だ。《QED》

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