――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘7)橘樸「中國を識の途」(大正13年/『橘樸著作集第一巻』(勁草書房 昭和41年)

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘7)橘樸「中國を識の途」(大正13年/『橘樸著作集第一巻』(勁草書房 昭和41年)
【知道中国 2046回】                       二〇・三・仲五

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘7)

橘樸「中國を識の途」(大正13年/『橘樸著作集第一巻』(勁草書房 昭和41年)

とどのつまり「老いたる中國社會」では「餘りに其の素朴性を喪失して居る」から、その社会に生きる「中國人を動かして道�的行爲に出でしむる力は、或は面子に依り或は道�の所謂冥罰に依り、何れにしても彼等の功利心に訴へる外無いのである」。

これを要するに橘は「功利主義道�も矢張道�の一種であると認」め、「面子や宗�的信仰を維持する中國一流の功利的道�をも安んじて道�の一種と認め」ることで、「中國人は�性に缺けて居ると云ふ事」も日本人の誤解であると結論づけている。

いわば中国人が振る舞いの拠り所とする「面子」なるものは「功利的感情」に支えられたものであり、それを中国人の「�性」と認めることで、「中國人は�性に缺けて居ると云ふ事も、他の二項に讓らぬ程度の誤解である」ということになるらしい。ヘンな理屈だ。

ここで思い当るのが林語堂である。彼は中国人の振る舞いを「老獪」の2文字で表現しているが、橘の判ったようで判らないような主張より余ほど明快と言える。

「老いたる中國社會」であればこそ「老獪」という振る舞いが編み出された。自らの「功利的感情」に突き動かされた行動であれ、「面子」の2文字によって正々堂々と“特殊中国的普遍性”を持たせることが出来る。もちろん、中国人社会の内側でしか通用しないが。

日常会話で口にする「給我面子」にしても、これを“直訳”するなら「オレの面子(カオ)を立ててくれ!」。だが、“翻訳”するなら「色々とゴ不満もあろうが、先ずはオレの面子を立ててくれよ!」となる。つまり些か「功利的感情」が見えてくる。一歩進めて“意訳”するなら、「先ずはオレの言う事を聞け!」「オレの考えに従え!」に近くなる。こうなると「功利心」の一点突破全面展開である。

さらに“忖度”の度を加えるなら、曹操が嘯いたとされる「寧可我負天下人、天下人不負我(オレが天下に背いても構わんが、天下をオレに背かせない)!」となる。このレベルに達すると、「功利心」なんぞを遥かに超越してしまう。

「超英?美(イギリスを追い越し、アメリカに追いつけ)」を掲げて国民の尻をひっぱたき、一気に社会主義建設を目指した大躍進ではあったが、現実を無視した野放図極まりない計画であればこそ、当然のことながら膨大な餓死者を出してしまった。

1959年7月から8月にかけて開かれた廬山会議において、一部幹部による大躍進政策の批判を受けたことで、毛沢東は共産党と国家の指導者としての「面子」を失いかける。そこで激怒の末に「ソッチがオレの政策に不満なら、オレは共産党の原点である井崗山に再び立て籠もり、再びゲリラ闘争に立ち返るぞ!」と啖呵を切った。これに幹部連中がビビってしまい大躍進は継続され、悲劇は拡大するばかりだった、とか。その時、毛沢東の頭の中に、きっと曹操の傲然たる姿が浮かび上がったに違いない。

なにやら橘も、『論語』読みの『論語』知らずの悪弊に染まっていたのではなかったか。

とどのつまり橘も「中國人の道�生活乃至道�思想の説明」を、「何人にも滿足の行く樣に説明する」ことは容易ではない。「實際難しく考へれば甚だ難しい事」であり、たとえ現地人の中での生活が長い日本人であったとしても「普通の日本人では深く中國人の道�感情に探り入る事が實際上頗る困難な樣子である」と、半ばサジを投げた風だ。

じつは橘は、中国に関する断片的知識とカンが頼りの所謂「支那通」や半可通の影響を排除し、日本人に正しい「中國を識るの途」の筋道を提示しようと「支那研究会」を主宰し、機関誌として『月刊支那研究』を発刊した。この論文は、大正13(1924)年12月発行の同誌第一巻第一号の巻頭を飾っている。それだけに「中國を識るの途」には、中国認識という営みに対する橘の基本姿勢と“志”が詰まっていると言えるはず・・・だが。《QED》

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