――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘1)橘樸「中國を識るの途」(大正13年/『橘樸著作集第一巻』(勁草書房 昭和41年)

【知道中国 2040回】                       二〇・三・初三

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘1)

橘樸「中國を識るの途」(大正13年/『橘樸著作集第一巻』(勁草書房 昭和41年)

橘樸(明治14=1881年~昭和20=1945年)。大分県臼杵の産。第五高等学校で退校処分を受け、早稲田大学では中退。日露戦争終結前後に『北海タイムス』記者。翌1906年に大連に渡り『遠東新聞』記者。以後、新聞記者の傍ら雑誌に寄稿。1918年のシベリア出兵に従軍記者として参加。1925年に満鉄嘱託となり、日本の大陸政策について論陣を張る。

日本では間歇的に満鉄、あるいは満鉄調査部ブームが起きるが、それに合わせるかのように時に橘も一部で再注目されることがある。

じつは日本人の中国認識の変遷に興味を抱いてから暫くして、フト《つじちょうかたちばなしらききたいっきすずえげんいちなかえうしきち》なる戯れ歌が頭に浮かんだ。音を追い掛ければ“見事”なまでに五・七・五・七・七で揃う。これを漢字で記すと《辻聽花・橘樸・北一輝・鈴江言一・中江丑吉》である。総じて彼らは中国に魅せられ、現地社会にドップリと浸かりながら日々を生きた――愉しみ、考え、抗い、戦い、悩んだ。敢えて一言を加えるなら、誰もが不本意な形で人生を閉じたようにも思える。

閑話休題。

これから読もうとする「中國を識るの途」は勁草書房が昭和41年に出版した『橘樸著作集』全3巻のうちの『中国研究 橘樸著作集 第一巻』の巻頭を飾っている。不思議に思ったのが「中國」の2文字である。橘の時代、まさか“真顔”で「中國」などと呼んでいた日本人がいたわけがないだろう。「中國を識るの途」の「中國」は余りにも不自然である。やはり「支那を識るの途」の方が自然であり、本来は「支那を識るの途」だったはずだ。

数年前に岩波書店から出版された『日中の120年文芸・評論作品選』(全5巻 張競・村田雄二郎編集)の『第2巻 共和の夢 膨張の野望 1894-1924』(2016年)を手にすると、「支那を識るの途」と題し、『中国研究 橘樸著作集 第一巻』所収論文が見えるではないか。やはり思った通りで、「中國を識るの途」には何らかの意図が感じられる。

橘の論文が最初に掲載された『月刊支那研究』(第一巻第一号)の発行は大正13(1924)年12月で、それから42年後の勁草書房版が「中國を識るの途」。さらに半世紀ほどが過ぎた岩波書店版が「支那を識るの途」である。ほぼ1世紀の時が過ぎて「支那を識るの途」に戻されたということだろう。「支那を識るの途」から「中國を識るの途」へ、さらに「中國を識るの途」から「支那を識るの途」へ。「支那」から「中國」を経て再び「支那」へ立ち戻った背後に、いったい、どのような事情があったのか。

ここで思い至るのが、日中関係を取り囲む時代状況と出版社の事情と編集者の政治傾向・姿勢である。前者が出版されたのは60年アンポから6年が過ぎ、日韓基本条約締結前後の混乱期に加え、70年アンポは数年後に控えていた。それだけに学界もマスコミも左翼リベラル論調が圧倒的であった。当時の勁草書房は左翼リベラル色を打ち出していたし、編集関係者の多くは戦前・戦中・戦後を通じて一貫して我が国の対中政策に批判的であるだけではなく、中国で始まった文化大革命には大いに共感を寄せていたはずだ。大雑把に括れば、親中反日派とでも評すべき立場だったと言えるだろう。

これに対し後者は日本における対中国好感度が長期低落化傾向――当然と言えば当然だが――にあった平成末年であり、原典に手を加えるような政治的配慮をすべきではないとの“学問的良心”を編集方針に掲げたと、好意的に推測したい。『墓標なき草原(上下)』(2009年)を嚆矢とする楊海英の一連の著作に見られるように、岩波書店ですら共産党政権が犯し、隠してきた“不都合な真実”を伝えざるをえなくなったということか。

 「支那」か「中國」か。漢字2文字が、日中関係を取り囲む環境の変化を物語る。《QED》


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