――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘2)
橘樸「中國を識るの途」(大正13年/『橘樸著作集第一巻』(勁草書房 昭和41年)
この辺で前置きを切り上げて本題に移りたい。なお、引用は原則として勁草書房版に基づく。
一般人が興味と論議の対象とする中国は「中國民族を構成するところの個人及び社會であり」、「個人に關する諸現象は〔中略〕自然科學の領域に屬し、又社會に關する諸現象は〔中略〕社會科學の範圍に屬する」。やはり中国という興味の対象は飽くまでも科学的に捉えられなければならない――これが橘の基本姿勢になる。
当時、「中國知識の豐富な所有者を俗に支那通と呼び習はし、世人は一面に之を重寶がり他面に之を輕蔑して居る」。それは彼らの「表藝たる中國知識の非科學的な爲であ」るからだ。なぜ非科学的なのか。それは彼らの見解が「先ず第一に豫言と云ふ事である」からだ。
「如何に中國知識の豐富な支那通であるとは云へ、内亂が起るか起らぬか、起つたら何方が勝つか、何時頃如何なる形で終熄するかと云ふ樣な事を正確又は其れに近い程度に洞察し得る道理が無い」。それというのも「彼等の持つ中國知識そのものが斷片的であつて其間に何等の統一又は連絡なく、必要に應じて〔中略〕間に合わせ的に出て來るに過ぎないからだ」。
こう支那通の欠陥を記した後、やはり「中國を識るの途」は「科學的方法」に沿って「中國知識を吸収する外無い」と説く。
中国の人文現象に関する科学的研究に関しては先行するイギリスやフランスはもちろんのこと、「後れて參加した獨逸にも相當な文獻はある。亞米利加は論外とし、比較的貧弱な日本ですら」、東亜同文会、台湾総督府、満鉄、関東庁、京都帝国大学、山口高等商業高校に加え、北京在住の中野江漢が主宰する風物研究会などが地道に活動している。「中國を識るの途」にとって、これらの機関が進めてきた「科學的研究の根本資料」は貴重極まりないものである。
「次に注意すべきは中國人自身の努力である」。「清朝盛時に於ける所謂考證學」を嚆矢として科学的研究が積み重ねられている。「之を要するに民國七、八年(1918、19年)以來の中國の學術界及出版界は、其れ以前と餘程調子が變つて來て、今日では世界の學者が決して中國人の科學的研究の結果を度外視する事が出來なくなつた」。
翻って見るに、相手国に対する好悪の感情は別にして、フランスの一般国民がイギリスを知り、イギリスの一般国民がドイツを知ると同程度に、日本人は中国を知る必要がある。昨今は大分に改善傾向にあるが、それでも「如何にも日本人一般の中國に關して持つところの知識は貧弱である」として、橘は「没常識の最も顯著なる實例三ケ條」を記す。
「一、日本人は一般に中國に對して先進者であると云ふ事を無反省に自惚れて居る。
二、日本人は中國を儒�の國であると思ひ込んで居る。
三、右の誤信とは一見矛盾する樣であるが、日本人は中國人を道�的情操の殆ど全く 缺乏した民族であるかの如く考へて居る」
日本人が一般に持つ「無思慮な優越感」について、「中國人の個人及社會生活の凡ての方面に此の誤れる原則を適用し、之が爲に誤解の程度を一層に深め且つ擴大して居る」。じつは、こういった傾向は西洋人に顕著に見られるが、「日本人は日清戰爭以後、斯の如き態度を西洋人から學んだものとも言えるのである」とする。だが、さて、そう言えるだろうか。
日中両国を冷静・科学的に見れば、「日本が中國に對して先進國であると正當に主張し得る範囲は極めて狹いものであるに過ぎ」ない。「我同胞は一刻も早く此の謂はれなき優越感を中國人に對して放棄する必要があると思ふ」。そう、「謂はれなき優越感」だ。《QED》