――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘6)橘樸「中國を識の途」(大正13年/『橘樸著作集第一巻』(勁草書房 昭和41年)

【知道中国 2045回】                       二〇・三・仲三

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘6)

橘樸「中國を識の途」(大正13年/『橘樸著作集第一巻』(勁草書房 昭和41年)

――黄河中流域の中原と呼ばれる黄土高原で生まれた漢民族は、やがて東に向かい南に進んで自らの生存空間を拡大してきた。先住異民族と闘い、過酷な自然の脅威にさらされながらも生き抜く。ゲテモノも食べる。こういった日々の暮らしの中から身につけた知恵の一方の柱が、何よりも団結と秩序を重んじる儒教思想だろう。団結と秩序が自らを守り相互扶助という考えを導く。だが獰猛無比な他民族、無慈悲なまでに猛威を振るう自然、王朝交代期の社会の混乱を前にしては、団結も秩序も粉々に砕け散ってしまう。人間なんて、どう足掻こうが所詮は無力である。そこで、諦めを説く老荘思想の出番となる。

団結と秩序への盲従、つまり誰もが大勢に唯々諾々と迎合する情況を「『儒』禍」と、人の力ではどうにも動かしようのない自然や時の流れをそのまま受け入れることで自らを納得させる様を「『道』福」と呼んだ――

言い換えるなら儒教と道教はコインの裏表のような関係であり、どちらか一方が欠けても「中國人を識るの途」からは遠く外れてしまう。

たとえば共産党内で絶対的権威を揮った毛沢東と�小平である。毛沢東は対外閉鎖を固くし、国民の移動を厳禁し、国民を挙げて「為人民服務」「自力更生」の道に進ませようとした。一方の�小平は対外開放に踏み切り、国民の移動を解き、政治的には厳格無比に締め付けるもののカネ稼ぎの自由を与えた。両者の姿勢は真反対だろう。だが毛沢東と�小平が断絶しているわけではない。共産党の独裁体制下での富強の中国を目指した点では大差はない。手法に違いはあれ、富強(アヘン戦争の敵討ち)という目標は同じだ。

毛沢東の対外閉鎖によって生まれた膨大で良質な余剰人口(労働力)があったからこそ�小平の開放路線が外国企業に迎えられ、中国が「世界の工場」へと大変身を遂げられた。これを青木の説く「『儒』禍」と「『道』福」に倣うなら、「『毛』禍」と「『�』福」である。だが、その「『�』福」が、いま武漢肺炎、つまり「『習』禍」となって金満中国を撃ち、世界を苦しめる。禍福は糾える縄の如く、やはり成功は失敗の元である。

儒教に道教、孔子と老子から毛沢東と�小平まで・・・片方に偏らず両方に応分の目配りをしないかぎり、「中國を識るの途」を進むことができるはずもないだろうに。

「最後の一項、即ち中國人は�性に缺けて居ると云ふ事も、他の二項に讓らぬ程度の誤解であ」り、「名前は同じ道�的情操でも日本人と中國人の其れとの間には非常な隔りがある」と橘は説く。その「隔り」を体得することは、当然ながら日本人には至難である。

たとえば「中國人の道�感情を支配する最も強大なる動機、即ち所謂『面子』」について、「私は中國の有らゆる人文現象の中で面子乃至面子感情と云ふもの程外國人にとつて難解な事柄はないと信じて居る」。「簡單に面子なる觀念を説明すれば、面子は其の本質に於て中國人の生活形式の一種であ」り、「社會の老いて居るだけ中國人は形式を殊の外に尊重」するが、その最たるものが面子である――これが橘の主張になる。

ここで以前に論じた「鑄型」「形式」こそが実質であるとの愚見を再び持ち出すならば、「中國人は形式を殊の外に尊重」と説く「形式」が「面子」であり、「形式」(=「面子」)が中国人の行動を左右すると言うのだから、やはり「形式」が実質となるはずだ。では、「形式」である「面子」が「民族道�の重要な�目」と見做される動機は何か。「道�尊重の純なる情操に非ずして、却て自身の面子を保つて行かねばならぬと云ふ功利的感情に存するのである」。

ということは橘の主張に基づいて考えれば、「面子」という「形式」は中国人の「道�尊重の純なる情操に非ずして」、「功利的感情」に起因することになるわけだ。《QED》


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