――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘8)
橘樸「中國を識の途」(大正13年/『橘樸著作集第一巻』(勁草書房 昭和41年)
「結語」で橘は、「世界の學者の科學的研究に關する」「業績の部分々々を整理し且つ打碎いて一般人の理解に適する樣な形に纏める事」が「私共に課せられた一つの大きな仕事でなくてはならぬ」と表明する一方、「日本人に必要な『中國常識』供給の急務を説」く。
それというのも「其の天然地理的地位の關係から、經濟的にも社會的にも政治的にも中國と密接な關係がある許りでなく、日本の領土及租借地内に中國民族の一大社會を包容して居る」からこそ、日本人は「公的にも私的にも深く中國人を諒解する當然の責務を負ふて居るものである」からだ。たしかに「中國人を諒解する當然の責務」を果たすべきだ。
だが「日本人は、彼等が西洋の或民族を理解して居る程度にすら中國人を理解し得ず、又西洋の或る國民、例へば英吉利人の一部が中國人を理解して居る程度にすら中國人を理解し得ていない状態に在る」のが現状であると声を大にした。
だから「嚴格な科學的批判に堪へ得ないにしても」、「切迫せる日本官民一般の需要に應ずる」ために、「正しく且つより深い中國知識を提供」する必要がある。そこで「學術的よりか寧ろ主として實用的標準に照らして、必要と考へらるゝ中國知識を選擇し發表することに力を注ぐべきであらうと信じて」、支那研究会を組織し、『月刊支那研究』の発刊に踏み切ったというのである。
その意気や壮と言うべきだが、では、なぜ日本人は隣国に対する誤解やら一知半解ぶりに気づかないのか。その原因について、たとえば『月刊支那研究』発刊から13年遡った1911年、つまり辛亥革命が勃発した年に揚子江一帯を旅した川田鐵彌は、「日本化された漢学で、直に支那を早合点した結果である」(『支那風韻記』大倉書房 大正元年)と結論づけた。
ここで時代を一気に文化大革命の時代まで下ってみたい。
当時の日本の論壇や学界、政界やらマスコミを制圧した感のある熱烈な毛沢東(主義)の信奉者たちが総力を結集して編んだに違いない『現代中国事典』(講談社現代新書 昭和47年)を取り上げてみるが、その「はじめに」に、「日本人は明治以来、中国について見そこないの歴史をかさねてきた」。それというのも「日本人の抱く中国像が、論語や孟子や古文物をとおして構成され」てきたからだ――との‟猛省”が記されているではないか。
川田が「日本化された漢学で、直に支那を早合点した結果」と指摘してから長い年月が過ぎてもなお、日本は「中国について見そこないの歴史をかさねてきた」というのだ。いったい、なにが災いしているのか。
「元来正直な日本人などは」、「書物など読むにも、用心して之を見ないと」、「支那人の書いた書物に、読まれて仕舞ふようになる」。歴代王朝の足跡を記録した歴史書である「正史を綴るにしても」、「仰山に書き立てゝあるから、余程、割引をしてかゝらないと、物によると、大変な思い違いをする」――川田の結論である。
川田、橘、『現代中国事典』に執筆した専門家と列記して考えると、とどのつまり「元来正直な日本人などは」「支那人の書いた書物に、読まれて仕舞ふようになる」らしい。
――以上、「中國を識の途」を考えてみたが、ここからは「中國を識の途」と同じく大正13年に発表された「中國民族の政治思想」(『橘樸著作集第一巻』)に移りたい――
橘は「御承知の通り中國には古くから思想上の二大潮流があ」り、「一つは儒敎で他の一つ道敎である」。「日本人は無闇と儒敎を買被り、論語一巻で日華民族の思想的融和が出來るなどと夢想する者さへあるが、是程馬鹿々々しい見當違いはないと思ふ」と、日本人の儒教(『論語』)信奉を批判した後、「一口で言へば儒敎は治者の利益に立脚して組立てられた敎義であり、道敎は之と正反對に被治者の思想及感情を代表するものである」と。《QED》