――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘11)橘樸「中國を識の途」(大正13年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房 昭和41年)

【知道中国 2050回】                       二〇・三・念三

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘11)

橘樸「中國を識の途」(大正13年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房 昭和41年)

?介石軍敗北の背景には幹部の腐敗・堕落に加え、B・W・タックマンが『失敗したアメリカの中国政策」』朝日新聞社 1996年)で詳細に分析したように、やはりアメリカの対中政策の失敗にあることは言うまでもない。

だが共産党史観では、飽くまでも毛沢東が「人民の意思」(天命)を体したからこその勝利でなければならない。いわば毛沢東が掌握した“属人的権力”は「人民の意思」に支えられたことで、晴れて歴史の正統性を付与されたことになる。では誰が「人民の意思」を認定するのか。毛沢東が掲げた「新民主主義」にしても、それが正しいと誰が認めるのか。

端的に言ってしまえば、毛沢東(オレ)が「人民」である。オレが認めたモノだけが「人民の意思」である。オレの権力・権威を正統づけるカラクリが「新民主主義」となる。

――もう、ここまでくるとムチャクチャとしか言いようはないが、改めて気づかされるのが、儒教と毛沢東の親和性である。

儒教では「天」は絶対聖であり、その対極に同じように絶対聖の「老百姓(じんみん)」が位置し、「天」と「老百姓」の中間に天子(皇帝)が置かれる。天子は「天」の意思を地上に実現させ「老百姓」に安寧と豊饒をもたらす。天子たる地位は「天」と「老百姓」の意思を地上に実現されている限り保障されるが、それが不可能になり天下が乱れるや、新たに「天」と「老百姓」の意思を五体に宿して登場した人物に正統性が付与され、新しい天子は「天」と「地」に向かって天下を治めることを告げ、新王朝が開基される。

毛沢東が?介石に戦勝したという事実が「人民の意思」が毛沢東に下された、あるいは毛沢東が「人民の意思」を実現した。だから毛沢東率いる共産党政権は正統性を持つ、とされる。これが共産党が主張する正統性の根拠だろう。だが、このカラクリは易姓革命を繰り返してきた歴代封建王朝に通ずる。自らを「新中国」と形容する共産党政権だが、“中国というカラクリ”に飽くまでも拘泥することで、彼らが否定する「旧中国」の封建王朝の後継政権ということになる。

伝統的には「天」と「老百姓」が絶対無謬の存在であることを根底とする儒教的価値観に基づく統治のカラクリ。現代では「人民」に絶対正義の価値を認めることで成り立っている毛沢東(共産党)独裁のカラクリ――この2つのカラクリを克服すること、言い換えるなら中国人の意識改革が、あるいは中国が“普通の国”になるための第一歩かもしれない。もっとも、そうはなりたくないと考えるなら、それはそれで仕方がない。世界の国々を敵と味方とに分けて、肩ひじ張って生きて行くだけだろう。

どうやら中国は軍事力やら経済力(最近ではソフト・パワーやらシャープ・パワーやら・・・)を誇ろうとも、最高権力者の個人商店に過ぎないのだ。現在は習近平の個人商店であり、であるからこそ武漢市の関係部署に向かって「(習近平)総書記に感謝し、共産党に感謝し、党の話を聴き、党に従って進む」ことを目指す「感恩教育」の市民への徹底を指示すると同時に、関係部署幹部に対し「民衆に中に入り、民衆を宣伝(きょういく)し、民衆を動かし、民衆に依拠し、共に感染防止工作に万全を期せ」とハッパを掛ける武漢市党委員会の王忠林書記のようなトンマな“店員”が出現するのだ(第2044回参照)。

近代国家を装った巨大な個人商店といえば、およそ漢族系企業社会(中国、香港、マカオ、台湾、華僑・華人)にみえる企業にしても、巨大な企業集団と名乗ってはいるものの実態的には個人商店に近い。阿里巴巴の馬雲(ジャック・マー)を筆頭に、世界に誇る膨大な個人資産を築き上げた彼らの本質は、やはり個人商店のオヤジということだ。

政治権力にせよ財力にせよ、やはり彼らは個人商店体質を脱却できそうにない。《QED》


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