――「彼等の中心は正義でもなく、皇室でもない、只自己本位でゐる」服部(8/16)
服部源次郎『一商人の支那の旅』(東光會 大正14年)
「青い山赤い瓦、碧に海と白い壁、高い山と深い海〔中略〕市街は埃も無い水も良い、綺麗な別荘地」のような青島の「目抜きの場所である所澤町」では、「鈴木、三井、三菱、江南、�濱正金、朝鮮銀行等が櫛比して居る、粂の野、第一樓、大辰等青島一流の料理店は、恰も別荘の樣な建築である」。
そんな青島でも、服部は精力的に歩き回り、産業状況の調査を詳細に進め、青島経済の将来性を考察する。あまりにも専門的に過ぎるので、バッサリと割愛しておく。
次いで南下して上海へ。
この街でも産業調査に多くの時間を割いているが、在住日本人から聞いた話として記した中から、興味深い部分を拾っておきたい。
先ず政治面。「現今支那青年の思想は」、「廣東を中心として起る即ち孫文一派の、共産主義的思想を基礎とする政治運動」と、「北京大學を中心とする、國家主義に目醒めんとする學生運動」の2つに分かれ、「此二つの流の上に立て社會改良運動が行はれんとして居る」。当然のように、その中心は「個人の利害少い學生」だが、「彼等は其主義を宣傳する上に於て人心を迎合せしむるには、排他主義を標榜するのは勿論である」。そこで狙われるのが「最も利害關係多き日本」であり、「時々猛烈なる排日宣傳の行はるゝは之が爲である」。
排日運動に続くのが「反基督�運動である」。それというのも「基督�は、帝國主義の御手先であ」り、「資本主義を認めつ且つ後援するものであ」り、「科學の進歩を妨げる」からだ。この3点に立って「頻りに�會の獨立を叫び、國家主義に醒めんとしてゐる」。
だが歴史を振り返って見れば、当初は「計畫から宣傳までよく行き届き、今にも大革命が起る」かに思える。だが若者は「直ぐ社會惡の捕虜となり此清い革命運動が立消へて了ふ」のである。
たとえば昨日まで排日運動の闘士だった若者が、「今日は日本觀光團に加つて、揚々と闊歩してをるのだから仕樣がない」。彼らは「自己主義一點張りの桎梏の中で、幾百年育てられた血」がそうさせるのだ。「現在の支那を考えて〔中略〕遺憾ながら、支那を亡ぼすものは廢頽した支那國民自身であると結論したい」。現状は「此大廢退の潮流に向つて進んで居る」。だから「時々無垢な學生が何とかせんと叫んで見るが、亡國の民は此廢頽を、社會の常」であり「革正不可能と考へて、更に憂ふるものなく、滔々として奈落の深淵に落ちて行くのである」。
経済的に見て「上海は支那ではない」。「世界で類の無い金塊取引所が立派に發達して居」て、「日本の全貿易三十億圓の三倍近くの決濟がされる」。「爲替市場としては紐育、倫敦と肩を並べて世界の三大市場である」。「世界第一の天與の港であるから、日本で威張つてゐる一浬に足らぬ神戸の港や、東洋第一と誇る大連などが、跣足で逃げるより外はない」。
その経済基盤、影響力、都市機能から判断して、やはり「上海は支那ではない、上海は上海と云ふ國際人の住む世界であると、考察の仕方を變へてかゝる可きである」。
その上海の最高権力機関である工部局は、「英國六名、米國二名、日本一名合計九名の市參事會員に依つて行はれ」ているが、「支那の領土で而も頭數からすれば一番多數居住して居る支那人」は参加できない。「上海の公園に入園を禁ぜられ」、「上海の市會議員に除外され」、かく「少數の外國人から此冷遇を受けて平氣で居るのだから、憂國の民と思はれぬ」。
服部は上海でも熱心に産業調査を行ったが、大部分は詳細に過ぎて割愛する。だが、たった一か所、「從業員社員工手四百五十人、職工は男女各半數で合計一萬五千人」を擁する「上海第一の紡績工場、内外綿株式會社」の部分に些か気になる記述が見られる。《QED》