――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(9)田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

【知道中国 1972回】                       一九・十・仲八

――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(9)

田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

『臺灣訪問の記』には、これまで見てきた「臺灣訪問の記」(全204頁)の後に「附録 臺灣統治策」(全69頁)が付されている。田川によれば「これは、私の三十年前の作」であり、旧知の乃木將軍が台湾総督に任命された際、「不圖、臺灣統治に關する卑見を、將軍の參考に供してみたい」と考えて纏めたもの。「將軍からは讀み終つた、注意して讀んだが大體同感だ」との返事をもらったと言う。

乃木が第3師団長(中將)から第3代台湾総督に就任したのは明治29(1896)年10月。同年5月に田川は台湾に渡り、主筆として『臺灣新報』に職を得ている。「臺灣統治策」は翌6月に『大阪毎日新聞』主催懸賞論文の第2席となり(賞金100円)、翌年4月10日から15日の間に6回に分けて同紙に連載されている。

ところで乃木の総督在任中に亡くなったご母堂の墓石が台北の都市再開発の際に見つかったことがある。四囲を板で囲み家屋の柱として使われていたと記憶するが、いつ、誰の手でそうなったかは不明だが、墓石を板で囲い柱にするなどという発想は日本人にはない。

乃木(任期は1年4カ月)の前任の桂太郎は第2師団長からの転出で任期は4カ月。乃木の後任は児玉源太郎で確か乃木と同じ第3師団長からだったはず。着任は明治31(1898)年2月で任期は8年2か月と長期だ。台湾総統のまま陸軍大臣(第4次伊藤内閣)、内務大臣兼文部大臣(第1次桂内閣)、参謀本部次長、満洲軍総参謀長、参謀次長事務取扱などを歴任し、明治39(1906)年4月に台湾総督兼参謀次長事務取扱から参謀総長に異動。南満州鉄道創立委員長就任から10日後の同年7月23日に脳溢血のため急死。享年僅かに55歳。

こう簡単に後半生を追っただけでも、児玉もまた明治と言う時代の骨格を造った重要人物であることが容易に想像できる。おそらく、その早すぎた死が彼を逸早く忘却の彼方に送ってしまったのだろう。かりに早い死がなかったら、児玉はその後の日本の柱となって黙々と歩いていたに違いない。余りにも短いが、極限にまで凝縮された人生だったと思う。

田川は、「將軍からは讀み終つた、注意して讀んだが大體同感だ」と伝えられたと田川は綴る。素直に読めば、総督としての台湾統治に関する乃木將軍の方針を示していると言えそうだが、新聞記者への社交辞令として「大體同感だ」と伝えたとも考えられる。

田川は「私の主張する根本の方針は」、30年前に乃木將軍に献策した当時とは「何等の相違がありません」。30年前の主張――「臺灣の先住者を、早く官吏に採用せよ」、「臺灣の民兵を組織せよ」、「自治」と「臺灣議會」を認めよ――は、30年後も変わっていない。ということは30年間の日本統治を経ても、「私の主張する根本の方針」は実現していないことになる。ならば30年間の台湾統治は、いったい、なんであったのか。なにが原因となって「私の主張する根本の方針」は実現するに至っていないのか。

30年前に田川が考え、総督着任を前にした乃木將軍が「大體同感だ」と口にした「私の主張する根本の方針」が、じつは台湾の現実を無視した単なる理想論でしかなかったのか。それとも「私の根本の方針」を実現させないような条件が、台湾側(在住日本官民、台湾社会など)にあったのか――こう考えると、あるいは田川が掲げる「臺灣統治策」の検討を通じて、日本の台湾統治の未知の部分、いわば現在に伝えられてはいない部分に光を当てることが出来るかも知れない。

田川は「一、日本が臺灣を支那より得た原因」「二、近世殖民に關する外國の態度及び形成」「臺灣の人民は、將來に於ても尚ほ現在の臺灣人即ち支那人なるべきか、將た現在移住しつゝ日本人なるべきか」の3点から考察を始める。

そこで最初の問題だが「日本が方今の世界的潮流に順應し」たからだと捉えた。《QED》


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