――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(5)田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

【知道中国 1968回】                       一九・十・十

――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(5)

田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

田川は内地から送り込まれる官吏が一般的に「(一)朝鮮、臺灣を、あまりに、邊陬の、人文未開の地と看下して居り、(二)臺灣朝鮮に下ると、何だか、立身の機會がおくれる樣に思ふから」だ。だが「第一は謬見」で、「第二は、若し事實とすれば、政府自ら之を改むるが宜しい」とする。かくて「何にせよ、私は、臺灣の官吏に、加俸の必要を認めない」。

台湾人は内地人官吏を指して「彼等は、果して有能な官吏ですか、内地で、賣れ口の無い喰い詰め者」ではないかと疑うだけではなく、「内地以上の贅澤をして居る、いづれも遊惰である、内地以上の遊惰を貪つて居る、と、批評する」。

だから、寧ろ「思ひ切つて、臺灣人を採用」すればいい。朝鮮でも同じだが、大学を卒業しても「その賣れ口の無い」彼らは、「待つて、待ちこがれて、待ちあぐんで居るのである」。やはり「臺灣の政治に、臺灣人を、朝鮮の政治に、朝鮮人を、多く用うるに至るのは、實際の趨勢、自然の情理であると思ふ」。内地で役に立たないような者に破格の俸給を与えておく必要はないと考える田川は、自らを「三十年の前から、臺灣人を用ゐて、臺灣の政局に當らしむる、自治的論者でありました」とした。(後出「附録 臺灣統治策」参照)

官吏のみならず一般人も内地からやってきた者は、台湾の生活に馴染もうとしない。これが「臺灣の統治、眞に困難」な要因だ。彼らは「殆ど一人の例外なく、臺灣語を學ばうとしません」。ところが日本人と違って「諸所に散在せる、若干の外國人宣敎師は、皆よく臺灣語を語ります。流暢に、自在に語ります」。「外人は、かくの如く語るが、内地人は語り得ない、以て、その決心と誠意の違が分ります」。

「若干の外國人宣敎師は、皆よく臺灣語を語」るは布教とインテリジェンスという表裏一体の目的があるからであり、やはり内地人と同日に論じられるわけでもない。それにしても日本人の現地社会に馴染まないという一般的性向は、今日に至っても余り改善はされていないように思える。だから思い込みが曲解を導き、曲解が誤解に結びつき、誤解が妄想を生み、やがて「疑心、暗鬼、水禽の羽音を聞き、驚き騒いで立つ」ことになりかねない。昔も今も、である。

このまま進めば、「臺灣の地は、やがて、臺灣人を以て、從來の支那人を以て、一杯に充たされませう、政治に志す者は、この傾向と、事情をも、考慮の中に入れて置かねばなりますまい」。だから日本が「立憲政治の國である、故に、臺灣も立憲代議政治の行はるゝ所ではなくてはならない」。

台湾に二院制度を設け、「臺灣の代表者の或者、朝鮮の代表者の或者を、我が貴族院に代表せしめられる事」とし、「臺灣議會の權限は、臺灣總督の權限に駢行」せしめる。「凡そ、租税の在る所には、必ず議會がある」から、台湾の租税は台湾議会で決する。「臺灣人の知識は、議會政治に堪へ得らるゝと信じ」るので、「差し當つて制限選擧を行ふに、何等の差支へ」はない。

やはり朝鮮も同じだが、「臺灣には、臺灣の歷史があり、風習がある、政は自然を貴び、自治を貴ぶ、自治が最上の樣式である」から、強いて統一する必要はない。「度量を大きくして、もつと、徹底的に、政治の意義、内容、目的、世界の趨勢を見」るべきだ。議会開設運動に携わる台湾人を「罪人の如くに、警察部が、嫌疑」する必要はない。彼らの活動を「絶對に禁止せらるゝことは、殆んど信じ得られない沙汰である」。

このように田川は様々な客観情勢から考えて、台湾に自治制度を布き、台湾議会を開設し、台湾人の台湾、台湾人による台湾を実現させることに何に不都合があろうかと。同じような条件を備えていればこそ、朝鮮も台湾と同じように扱うべきだと主張する。《QED》


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