――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(18)
田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)
「臺灣統治策」の発表に先立つこと3年の明治26(1893)年、樽井藤吉は『大東合邦論』を著し、和を貴ぶ日本と仁を重んじる朝鮮――親密の情の間柄の双方が「各邦の自主自治の政をして、均平に歸せし」め、「日韓兩國をして一合邦たらしむる」ことで新国家「大東國」を建国し、さらに清国と合従し東洋平和を築き、西欧列強の東亜侵略打破を目指した。
これに対し田川の「臺灣統治策」は「臺灣の文明を促進し、臺灣人をして、今世紀の文明を解し、世界の大勢に順應せしむる基礎を築かしむるを得ば、日本が此島を支那より得て、世界に起誓したる當初の趣意、精神も、以て徹底せらるに近かるべし」と説く。遅れた台湾を世界水準に引き上げることが、台湾領有に際して日本が「世界に起誓したる當初の趣意」に副うことができる。世界に対し日本の責務が果たせる、というのだろう。
『大東合邦論』出版翌年に日清戦争が勃発し、2年後の明治28(1895)年に日清講和条約(馬関条約)が結ばれ、清国は朝鮮が完全無欠な独立自主の国であることを認めると同時に、日本に遼東半島・台湾・澎湖諸島を永遠に割与した。田川の「臺灣統治策」の発表は明治29(1896)年で、その14年後の明治43(1910)年に、「韓國併合ニ關スル條約」が調印され、韓国に関する「一切の統治權」は「完全且永久ニ日本國皇帝陛下ニ讓與」され、大日本帝国が大韓帝国を併合したのである。それから15年が過ぎた大正14(1925)年に、田川は『臺灣訪問の記』を世に問うた。自明のことながら、日本による統治期間は朝鮮半島では35年間、台湾では半世紀で終わっている。
『臺灣訪問の記』出版2年後の1927年というから香港がイギリスの殖民地となって85年後のことだが、長期に亘る反英闘争が終わった直後の香港を歩いた魯迅は「再談香港」で殖民地香港の現実を、「香港はチッポケな一つの島でしかないのに、(中略)中国のいろいろな土地の、現在と将来の縮図をそのままに描き出す。中央には幾人かの西洋のご主人サマがいて、若干のおべんちゃら使いの『高等華人』とお先棒担ぎの奴隷のような同胞の一群がいる。それ以外の凡てはひたすら苦しみに耐えている『土地の人』だ」と綴った。
「中央には幾人かの西洋のご主人サマ」、その下に位置する「若干のおべんちゃら使いの『高等華人』とお先棒担ぎの奴隷のような同胞の一群」。最下層の圧倒的多数は「ひたすら苦しみに耐えている『土地の人』」――実態的には、これが殖民地経営の“世界標準”だ。
この魯迅の考えは、「西洋の列強は自分たちの諸価値をかつて所有していた場所に本気で根づかせようとしたことがあったでしょうか? 残念ながらそうではなかったのです。インドであれ、アルジェリアであれ、他の場所であれ、西洋の列強は、彼らに支配された『現地人』が、自由、平等、民主主義、企業精神、あるいは法治国家の理念を掲げることを決して認めず、それどころか現地人がそれらを要求しようものならたえず弾圧していたのです」(アミン・マアルーフ『世界の混乱』ちくま学芸文庫 2019年)に重なるに違いない。
アミンは「一般的に、列強の政治を動かしていたのは、貪欲な植民地会社であり、その特権を手放すまいとする植民者たちなのであって、彼らにとっては『現地人』の発展ほど恐ろしいことはないのです」と続けた。
おそらく台湾に対する意識は、当時も朝鮮半島に対するそれとは違っていたからこそ、台湾との「合邦」などの声は上がらなかったはずだ。アミンの指摘を待つまでもなく、「植民者」は「『現地人』の発展」を願うわけがない。だが田川は徹底して「『現地人』の発展」を考えた。そこには樽井が目指した「大東國」と清国の合従による西欧列強覇道への対抗意識はなく、「世界の大勢」との関りに力点が置かれる。やはり台湾統治の半世紀を、田川が訴えた「臺灣領有の根本の目的」から振り返る必要があるはずだ。《QED》