――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(17)田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

【知道中国 1980回】                      一九・十一・初三

――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(17)

田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

やはり最高の教育を施すことで「臺灣の文明を促進し、臺灣人をして、今世紀の文明を解し、世界の大勢に順應せしむる基礎を築かしむるを得ば、日本が此島を支那より得て、世界に起誓したる當初の趣意、精神も、以て徹底せらるに近かるべし」。

だから教育で台湾人の日本化を図ろうなどと言うは、「日本人自身、日本人の値打ちを廉く、卑しく見積りたるものなり」。「臺灣人をして、日本人に懷き、日本國に悦服せしむるの百年の大策は、蓋し日本人が度量を宏開して、世界的高等�育の普及、發達を圖る在るのみ也」。やはり諌めるべきは短兵急な成果主義ということだろう。

田川が最後に挙げる「本論の骨子」を整理すると、

(1)「臺灣人を見ること、戰敗國の奴隷の如くならず、之に獨立自由の住居地を與へ、樂んで帝國の民とならしむ」。

(2)総督府の任務は、「獨り日本の移住民に厚くせず、從來の臺灣島民に薄くせず、彼も此も均しく我皇領の民として公平、寛大、親切、平等を採」ること。まさに一視同仁だ。

(3)島民教育に当たっては「單に日本化と云ふ一方に偏依したる、狹隘、淺促の方針」を採るのではなく、台湾をして「世界の大勢に同化し、順應せしむる」を目的とする。いわば「政治

的手段を以て、一時に、性急に、日本的愛國心を強壓注入することを避け、社會的方面より、徐々に、涵養」することを本旨とすべきだ。

さらに「本論の補足」として、「一、臺灣官吏の任選法、及待遇法を重く」すべきこと。「二、臺灣をして有爲なる官吏の登龍門たらしむべき途を開かれんこと」の2点を挙げる。 

「一」について:確かに台湾は外国ではない。だが「最近まで外國に屬したる土地人民」である。ならば統治・経営する責任の重さを考え、外国に派遣される官吏が受ける栄誉や特典――「出入りある毎に謁見を賜はり」、「俸給を加増し」、「其家族携帶費等を給與せらるゝ」など――は考慮される必要がある。

「二」について:「今日の如く臺灣官吏の選叙を輕忽にし、且、其内地に轉任の場合、特に一等降下すべき制限を附し」ているが、それは中央政府が台湾統治の意味・意義に考えが及んでいないからだ。「臺灣今日の病は上下官吏が、一日の安を偸んで百年の憂い忘るゝに在り、方策なきに非らず、當る者が誠氣を缺くに在り、苟も誠意なし、即ち百千の方法ありとも、何の用を爲さんや」。

以上で「附録 臺灣統治策」は終わるが、これを総括するなら日本の台湾領有は世界史、あるいは文明史から見て必然であり、日本は日本のための台湾ではなく台湾人のための台湾を建設する。台湾を文明世界に向かわせることが日本の使命である――となろうか。

『田川大吉郎 ――その生涯と著作――』(遠藤興一 ジェイビー出版 2005年)を見ると、明治29(1896)年に27歳で台湾に渡り『台湾新報』の主筆を務め、「乃木希典総督下の台湾で働く」とある。また「臺灣統治策」は同年6月に実施された『大阪毎日新聞』懸賞論文に第2席で入選していることが記されている。つまり「臺灣訪問の記」は「臺灣統治策」の執筆から30年後に書かれたことになるのだ。

「臺灣統治策」から「臺灣訪問の記」までの30年間、台湾総督は乃木、児玉、佐久間、安東、明石の前期武官時代を経て田、内田、伊澤の文官時代の前後8人が務めたわけだが、「臺灣訪問の記」を読む限り、「臺灣統治策」が実現されたフシが見られない。つまり30年が経ても台湾統治は田川の望んだ形では進まなかったことになる。

50年に及ぶ日本による台湾統治は、どのような影響を台湾に残したのか。“殖民地統治後遺症”に悩まされる日本への処方箋が、田川の主張に隠されているようにも思う。《QED》


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