――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――德田(1)
德田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)
德田球一(明治27=1894年~1953=昭和28年)は、「徳球(トッキュー)」の“愛称”で知られた沖縄県出身の筋金入りの共産党員である。大正11年7月の日本共産党結党に参加。昭和3年に逮捕され入獄したが、戦時下でも一貫して非転向を貫く。
敗戦を機に釈放された後、書記長として共産党再建に奔走。戦後最初の総選挙に立候補し当選するが、昭和25(1950)年6月には公職追放処分を受け地下に潜行し、同年9月(10月?)に大阪港から建国1年後の中国に。
北京で亡命生活を送りながら共産党を指導し、地下放送の「自由日本放送」を通じて武装闘争を指示。だが後に委員長に収まる野坂参三ら国際派と対立。昭和26(1951)年には活動方針を巡って自己批判をしている。昭和28(1953)年、北京で病死。その死は昭和30(1955)年まで非公表だった。
「第一部 ゴビの砂漠をゆく、動乱の中国にて」の副題を持つ『わが思い出 第一部』は、「一九二一年の十月上旬に日本を立つてモスクワでひらかれた極東民族大會に出席した日本人同志九人」の1人である德田が、帰路に歩いた「シベリアの一部から蒙古、中國にわたつての地勢だの風俗だのの一端にふれつつ、それら諸國における革命の發展の一定の時期における状態を明らかにし、人民大衆の動きとともに、反革命政府の態度についてもふれ」たものである。
本書出版当時、德田は共産党書記長(昭和20=1945年~昭和28=1953年)であり、衆議院議員(昭和21=1946年~昭和25=1950年)であった。また日本を占領していた連合軍を「解放軍」と称えるなど、GHQとは蜜月関係を保っていた。
以上からして、当時は德田の“得意の絶頂期”であったと思われる。「七カ月餘にわたり、アカハタ紙上に連載されたものである」。それだけに、行間には革命に向けた德田の“自負と信念”が強く感じられる。
以下、德田が記したシベリア・蒙古における中国人の姿と動乱期の中国の状況を追ってみたい。
モスクワを発った一行は、イルクーツクを経て「數百年の昔から蒙古、シベリア間の貿易市場」であった「賣買城(マイマイチン)」で外蒙古入りし、同地で「クーロン(今はウランバートル、赤い都という意味の蒙古語)までの通過證」の交付を受けている。
トロイカでの「荒原の旅」が続く。「ふたたびゆるやかな丘をあがつていつた時」、前方に「ただならない光景」が広がった。
「中國人が着るあつい綿入れの上衣やズボンがそこら一面に散らばつていた。四、五百も、いやもつとそれ以上だつたろうか。よくみるとただ綿入れの着物が散らばつているのではなく、胴が切れたり、手だけとれたり、足だけだつたり、首がころがつていたり・・・・・・人間の死體だつた。胸のつまるようなありさまであつた」。
赤衛軍と白衛軍の戦闘の犠牲者で、「オオカミに食い荒らされたあと、くされはてて、散らばつた殘がい――これらはすべてその時の白衛軍の戰死體だつた」。白衛軍の「ウンゲルン將軍がクーロンで金をばらまいて雇つた中國人のクーリー」の無残な姿だった。
德田は彼らを「全くの金で雇はれた奴隷の軍隊」と見做し、そこから「中國の外蒙古支配が、どんなに、だ落して弱いものだつたかよくわかるだろう」と結論づける。
2日目の夜は、「相當大きい部落」で過ごす。住民の3分の2はロシア人で残りが中国人だが、「中國人の組織的な開拓をみてびつくりした」德田は、「こんな外蒙古の奥まで入りこんできて定着する中國人の根強さ、ねばり強さにはまつたく打たれる」のだ。《QED》