――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(4)渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 大正10年)

【知道中国 1892回】                       一九・五・十

――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(4)

渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 大正10年)

 奉天を離れた渡邊の次に目的地はハルピンだった。奉天から長春までの旅は「廣き滿鐵一等寝臺車に悠々安眠」したが、寛城子からハルピンまでのソ連経営になる東清鉄道の旅は最悪だった。出発時間は大幅遅延。加えるに「概して中以下の支那人群を以て滿たされ」た駅構内は大混乱。乗り込んだ車両は「汚穢を極め、總ての被衣の白きが灰色となり、幾多の汚斑を存せる、支那人、露西亞人の、飲食品もて且汚し、且啖唾を加ふるに至つて、其喧雜と其異臭と共に堪ふべからざるを覺えき」。この惨状に追い討ちを掛けたのは「暑熱」というから、ご同情申し上げるしかない。

 当時はロシア革命直後でもあり、「革命軍によって囚われたチェコ軍団救出」を掲げた連合国(日本、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアなど)によるシベリア出兵(1918年~22年)は始まったばかり。極東における共産党の政権基盤は脆弱であり、当然のようにハルピン市政も一種の無政府状態であればこそ、鉄道の管理が行き届くわけはなかったはずだ。因みに、この年3月にニコラエフスクにおいて領事以下の日本人多数が虐殺され、4月に沿海州守備のために派遣された日本は、6月にニコラエフスク港を占領している。

 まさに混乱の渦中にあった北満から沿海州にかけての旅行だったことになる。

 この当時、東清鉄道は中国側が回収し自己の管理下に置いたことから、「支那人及支那兵の得意」な様子が見られる。かくして沿線各駅では「支那兵の銃劍を列ねて隊をなし、戒嚴令下に之を護るの風あり」。かく得意然と構える「彼等果して幾何の覺醒かある。萬丈の塵裡に羊豚の如く生活し、依然たる堯舜の民を以て國家の興亡を意に介せず」。であればこそ「東清鐵道の彼等によつて改良せらるゝ能わ」ざることはもちろんであり、彼らに東清鉄道の正常な管理など望むべくもない。

 やっと辿り着いたハルピンは、じつは「北滿における最重要都市、露國の東亞經略の策源地として露國帝政の一大記念物」ではあるが、渡邊は「惡印象のみ」の一言で片づける。だが、と日本の影響力の北進を提案する。

 「先づ哈爾濱までにても可なり、實際の經営を我に委託し、其の軌幅を改めて南滿線と同一にし、長春、寛城子を一貫して以て、同一列車を運轉せしむべきなり」。そのうえで「日支妥協して提携せば、以て世界の異論を排斥し、以て人類の幸福を進め得ばきなり。況や亡餘の露國をや」。「日支妥協して提携せば」、ソ連(「亡餘の露國」)はもとより「米英佛の之を阻礙するする」ことはない。であればこそ、満鉄を長春から延伸し東清鉄道の南の終点である寛城子に繋げ、旅順・大連からハルピンまでを結んでしまえと提言しつつ、渡邊は「抑も亦日本之を策するの人なきか」と慨嘆する。

 ハルピンで訪ねた北満電気会社の横山専務から「日露支合辨計畫の哈爾濱電鐵が、支那側の態度によりて不成立」と聞き、渡邊は「北滿における利權競爭熱の如何に激甚なるか」を知るのであった。であればこそ満州を「北行するに從つて邦人の西伯利撤兵を非とするものゝの多」く、「邦人の平和的北進亦容易にあらずといふべし」である。

 ここで唐突ではあるが渡邊の旅行の10年ほど後の1931年に起きた満州事変、翌年に建国された満洲国について調査したリットン調査団の報告書の一部を引いておきたい。

 「本紛争に包含せられる諸問題は、往往称されるごとき簡単なものにはあらざること明白なるべし。問題は極度に複雑なり。いっさいの事実およびその史的背景に関する徹底せる知識ある者のみ、事態に関する確定的意見を表示し得るものありというべきなり」。

 ロシア革命後の混乱期、北満利権をめぐって入り乱れる日・中・米・英・仏に加えソ連と帝政ロシア残存勢力・・・「往往称されるごとき簡単なもの」ではなかった。《QED》


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