『Japan on the Globe−国際派日本人養成講座』より
伊勢雅臣
昭和20年の春、台湾南部を走る満員の汽車のステップに立ち、振り落とされまいと必死に鉄棒に掴まっている12、13歳の少女がいた。名は楊素秋(日本名:弘山貴美子)さん。台南第一高等女学校(4年生の旧制中学)を受験するための参考書などを詰めたリュックを背負い、3日分の米と野菜を入れた布袋2つが両腕に痛いほど食い込んでくる。
隣に立っていた20歳ぐらいの日本人の将校さんが心配そうに「大丈夫ですか」と聞くが、もう返事をする気力も残っていなかった。
将校さんが「その荷物を捨てなさい。早く捨てなさい」と言った。ちょうど汽車は鉄橋にさしかかった所だった。鉄棒から片方の手を離して荷物を捨てた時、ゴーと鉄橋に渦巻く列車の轟音にハッとした楊さんは、左足をステップから外してしまった。「助けて」と叫ぼうとしたが、目の前が真っ暗になって、意識を失ってしまった。
遠くで聞こえていた大勢のざわめきが、段々と近くなってきた。誰かが頬を叩いている。「気の毒にね。いたいけな子供が。顔が真っ青だよ」「いやぁ、その軍人さんがいなかったら、この子は川の中だったな」
気がついたら、楊さんは知らないおばさんの膝の上に抱かれていた。おばさんはニコニコしながら「ああ、よかった。息を吹き返さなかったら、どうしようかと心配していたのよ」と、楊さんのおかっぱ頭を撫でた。台南駅につくと、おばさんは楊さんを抱いて窓から外に出してくれた。窓の外には、あの将校さんが待ち構えていて、楊さんを抱き降ろした。
他の人に尽くす力も与えてくれた
汽車のステップの上に立ち、自分の荷物を抱えて立っているだけでも大変なのに、その将校さんは気を失って転落しかけた楊さんをとっさに掴み、引っ張り上げてくれたのだった。下手をすれば自分も一緒に落ちてしまうかもしれないのに。
「あのう…、お名前を教えていただけますか?」と楊さんが聞くと、将校さんはプッと吹き出し、「ハハハ、子供のくせに。いいから気をつけて帰るんだよ」と将校さんは手を振って、汽車に乗り込んだ。爽やかな笑顔だった。汽車が遠くかすんで見えなくなるまで、楊さんはそこに立ちすくんでいた。将校さんへの感謝を繰り返し、武運長久を祈りながら。
楊さんは、その後、名前だけでも聞いておけばよかった、と50年以上も悔やむことになる。生きている間にもう一度お会いして、お礼を言いたい…。
そんな思いを抱きつつ、楊さんは戦後、成人してから小児麻痺の子供10人と健常者の子供20人を預かって育てあげた。あの将校さんは自分の命を助けてくれただけでなく、他の人に尽くす力も与えてくれたのだった。
清潔で治安の良い街
楊さんは昭和7(1932)年、台南市に生まれた。父は台北工業高校を首席で卒業し、台湾電力に勤めていた。多くの日本人の部下を抱え、彼らから尊敬されていた。日本統治下に生まれた父親は完全な日本人になりきっており、楊さんが生まれてからは家庭でも日本語で通した。ただ母親は日本語が片言しかできなかったので、楊さんは母親とは台湾語で話した。
父親は銭湯が好きで、よく楊さんの手を引きながら、連れて行った。道すがら「お手々つないで」や「夕焼け小やけ」など日本の歌を教えてくれた。
日本時代の町の特徴は、とにかく清潔なことだった。朝早く起きて、戸を開け、まず家の掃除。その後、家の前の道を掃くのだが、隣の家がまだ起きてなかったら、そちらも掃いてあげる。そうすると、今度は隣の家が翌朝はもっと早く起きて、こちらの分まで掃いてくれるのだった。
道路脇の側溝を掃除するおじさん、散水車、除草の車なども朝早くやってくる。こういう作業員はみな政府に雇われていた。かつては「瘴癘(しょうれい、風土病)の地」と呼ばれた台湾の衛生状態を改善するに日本政府は力を入れていたのである。
治安も良かった。今の台湾では窓に鉄格子をしているが、日本時代には鉄格子のない家で、戸締まりなどしなくとも安心して眠ることができた。道ばたで物を拾っても、自分のものにすることもなかった。楊さんの家の前には派出所があり、日本人のお巡りさんがいた。楊さんが時々落とし物を拾って届けると、「君、また拾ってきたのか」と褒めてくれた。
日本人のお隣さんたち
楊さんの家の周囲には、日本人がたくさん住んでいた。お向かいの金子さん、裏には榊原さん、中学教師の広瀬先生、台南の法院長を務めていた緒方さん。
このあたりで電話があるのは楊さんの家だけだったので、ご近所あてに電話があると、楊さんは走って「電話ですよ」と呼びに行った。呼ばれた日本人の家では、後でかならずお寿司などを持ってお礼にきた。
また近所の日本人は、よくおはぎをたくさん作っては、親子揃って、楊さんの家に遊びに来た。楊さんの家でもお返しに台湾餅などを作った。それを届けるのも楊さんの役目だった。
台湾にも隣組の制度があり、日本人と台湾人の区別なく構成されていた。朝は、幾つかの隣組が集まり、組長さんが交代で号令をかけてラジオ体操をする。
天皇誕生日などの祝日には、町中の家が日の丸を揚げていた。台湾は即ち日本であり、自分たちは「台湾に住んでいる日本人」としか思っていなかった。
手を取って家まで帰ってくれた宮本先生
楊さんが小学校に入って、最初の担任となったのは宮本先生という美人で優しい先生だった。楊さんは入学したその日から、宮本先生が大好きになった。
学校の裏手にある牧場に連れて行ってくれた事があった。先生が「皆さんは誰のおっぱいを飲んで大きくなりましたか」と聞くと、お父さん子の楊さんは威勢良く手を挙げて「はい、私はお父さんのおっぱいで大きくなりました」と答えた。皆に笑われたので、楊さんは泣き出してしまった。
その日の放課後、宮本先生は楊さんの手をとって家まで一緒に連れてきてくれ、父親に成り行きを話した。父親は嬉しそうに「ワッハッハ」と笑った。楊さんは、先生が一緒に帰ってくれるだけで嬉しくて、泣いたことなどケロッと忘れてしまった。
楊さんが落とし物を拾って届けると、宮本先生はまた楊さんの手を引いて家まで来てくれて、父親に色々を楊さんのことを褒めてくれた。父親は目尻を下げて聞いていた。宮本先生に限らず、当時の先生方は生徒に自分の子供のように接し、また親とも緊密な信頼関係を築いていた。
一緒に遊んでくれた小谷先生
3年生の時の担任は、小谷先生という男の先生で、楊さんの家の裏に住んでいた。楊さんは放課後、家に鞄を投げ出すと、小谷先生の家に遊びに行くのだった。先生はお話しをしてくれたり、習字を教えてくれたりした。
台湾神社や開山神社のお祭りや夜市があると、先生は楊さんたちを連れて行ってくれた。浴衣に着替えた先生が迎えにくると、「わー」と先生の腕にぶる下がる。友達が「私も私も」と言うので、かわりばんこにぶら下がった。そして神社に行っては、金魚すくいをしたり、お菓子を食べたりするのが、楽しくて仕方がなかった。
授業では、楊さんは修身の時間が大好きだった。先生は偉人伝の本を読んでくれたり、紙芝居を見せてくれたりした。楠木正成、二宮金次郎、宮本武蔵から、野口英世、東郷元帥、乃木大将、そしてエジソンやキューリー夫人…、これらの人物が艱難辛苦を乗り越えて、立派な人になった、という話に、楊さんは感動して、自分もそうなりたい、と思った。
先生は「我が国には昔こういう偉い人がいた」という具合に教えてくれた。「日本には」とは言わなかった。だから楊さんも「我が国」と覚えてきた。
毎朝の朝会では明治天皇の御製(御歌)などを朗詠するので、楊さんたちも自然に覚えた。その中にはこういう御歌があった。
新高(にいたか)の山のふもとの民草も茂りまさると聞くぞうれしき
新高とは台湾の代名詞である。明治天皇が日本人と同様に、台湾の民をご自分の民として思って、その繁栄を喜ばれている事がよく分かった。
自分の国の兵隊さんは、こんなに素晴らしい
台南には日本陸軍の第2歩兵連隊が駐留しており、年に何回かある記念日には閲兵式があった。その行進の歩調は、イチニ、イチニとピッタリ揃っていて、沿道を埋め尽くした人々が、みな固唾を呑んで見とれていた。
ある日、演習があって、楊さんの家の前の木陰で休んでいた兵隊さんが立ち上がろうとした拍子に銃を落としてしまった。上官がそれを見て、兵隊さんに鼻血が出るまでビンタを張った。ぶたれながらも兵隊さんは気を付けをしたまま、敬礼して「ありがとうございました」と言うだけだった。その敬礼は崩れず、実に格好良かった。
その様子を息をこらして見ていた楊さんは、子供心にも軍の厳しさを感じ取った。兵隊さんでだらしのない人は一人も見たことがなかった。自分の国の兵隊さんは、こんなに素晴らしいのだと、楊さんたちは誇りにしていた。
兵隊さんに肩車
昭和18年、楊さんが5年生の時には、台南市でも米軍の爆撃が激しくなり、一家で祖母のいる大社村という田舎に疎開し。そこにも日本の若い兵隊さんたちがおり、日本語の話せる楊さん一家に、自然に遊びに来るようになった。
楊さんの母親は兵隊さんたちを自分の子供のように可愛がって、おやつやご飯をたくさん作って、たらふく食べさせた。満腹になって帰って行く兵隊さんたちには「明日もおいで」と声をかけた。
兵隊さんたちは、お礼代わりに、水汲みを手伝ってくれたり、また支給品の三角巾や薬を使わずに持ってきてくれた。中には自分が使っていた立派な万年筆を楊さんの父親にあげようとして断られると、「お願いですから使って下さい」と半ば強引に置いていった兵隊さんもいた。
兵隊さんたちはお互いの間では「おい、こら」などと言っているのに、楊さんに向かうと「喜美ちゃーん」とニコニコしていた。子供にはとても優しかったのだ。
軍隊では時々映画を見せてくれるので、そういう時は「喜美ちゃーん、映画に行かんか」と誘ってくれる。楊さんは「はーい」と言って元気に家を飛び出す。5年生で小さな楊さんは周りが皆兵隊さんばかりで画面が見えないので、いつも肩車してもらうのだった。
やってきた蒋介石の軍隊
楊さんの幸福な日々も、日本の敗戦とともに終わりを告げた。その最初のショックは、中国から蒋介石の軍が上陸した時だった。兵は裸足でボロボロの服を着て、天秤棒に鍋と七輪をぶら下げ、こうもり傘を担いでだらだらと歩いていた。手で鼻をかんだり、痰を吐いている人もいて、こんな兵隊がやってきて、台湾はどうなるのか、と心配になった。その心配は現実のものとなった。今まで戸締まりなどしなくても安心して寝ていたのに、家の自転車が盗まれてしまった。
終戦2年目の1947(昭和27)年2月28日には、蒋介石政府の横暴に怒った民衆が台湾全土で暴動を起こした。2・28事件である。そのきっかけを作ったのは、中国人の密輸タバコ取締官が台湾人の女性の所持金を取りあげ、銃で殴っているのを、日本海軍から戻ったばかりの若者が守ろうとしたことだった。
この暴動を鎮圧するために、全土で3万人近くの台湾人が殺された。楊さんの父方の親戚の湯(とう)さんも、大衆の見守る中で銃殺された。学生たちの命を守ろうと、学生連盟の名簿を役所から持ち出して燃やしたからである。湯さんの奥さんが夫の亡骸に毛布をかけてやろうとすると、中国兵はその手を払いのけて、銃剣で死体を突っついた。中学2年生の楊さんには、あまりにも衝撃的な光景だった。
あの平和で穏やかな時代に戻りたい
蒋介石政権の戒厳令は40年間も続いた。そしてようやく「中華民国」から脱却して「台湾」への道を歩み始めたのは、「私は22歳まで日本人だった」と語る前総統・李登輝の時代になってからである。
日本時代は、人民は政府を信頼していました。そして、それに応えるかのように政府も人民の生活を良くしてあげたいという気持ちを表していました。また、兵隊さんも、先生方も、お巡りさんも良くしてくれ、町中至る所にいい雰囲気が溢れていました。
もしもタイムマシンで元に戻れるなら、もう一度日本時代に戻りたいです。あの平和で穏やかな時代に。
台湾は別名をフォルモサともいう。16世紀にやってきたポルトガル人が、緑溢れるその美しさに感嘆して「フォルモサ(麗しの島)」と呼んだのである。その麗しの島で、かつて台湾人と日本人が力を合わせて幸福な時代を築いた。それはまた日本人の目指す理想の社会でもあったろう。
日本時代とは私にとって、素晴らしい時代であり、私の人生の道標をこしらえてくれたと言っても過言ではありません。私の向かうべき人生の指針を与えてくれました。
私の心の中には、いつもとても綺麗な日の丸の旗が翩翻(へんぽん)とはためいています。
(『日本人はとても素敵だった』楊素秋・著/桜の花出版)