◆八田の墓前に捧げた寮歌
八田與一(はった・よいち)のことは今や、日本でも台湾でも、よく知られている。大正
期、日本統治時代の台湾で「東洋一のダムと水路」をつくり、不毛の大地を大穀倉地帯に変え
た功労者だ。
明治19(1886)年、現在の金沢市の生まれ。石川県立(金沢)第一中学(旧制、現・県立金
沢泉丘高校)─第四高等学校(同)という“地元のエリートコース”を経て、東京帝国大学に
進学。卒業後は台湾へ渡り総督府土木部の技手となった。
故郷・金沢にある「金沢ふるさと偉人館」では『善の研究』で知られる哲学者の西田幾多郎
(きたろう)やタカジアスターゼを製薬化した科学者の高峰譲吉などと並び「近代日本を支え
た20人たち」のひとりに列せられている。
台湾では日本以上に名高い存在だ。その名は台湾の歴史教科書に掲載され、毎年5月、台湾
で行われる墓前祭には、日台の関係者が参列し、台湾の総統までやってくる。日本からは八田
の母校・四高のOBらが駆けつけ、墓前で、寮歌『南下軍の歌』や『北の都』を高唱するのが
長く習わしになっていた。
平成21(2009)年に行われた墓前祭の様子が四高の同窓会報『北辰(ほくしん)』に書かれ
ている。
≪全郷村あげての歓迎。(略)バナナ、スイカ、マンゴーなどでもてなしてくれる。このよう
な農産物が収穫できるのも八田技師による嘉南大圳(かなんたいしゅう)のお陰(かげ)
とわれわれに告げて、彼を神様のごとく敬愛している≫≪参列は(日台合わせ)400人ぐらい。
馬英九総統も主祭として出席された。(略)八田技師の後輩、われわれ6人は、式次第にはなか
ったが最後に寮歌『北の都』を捧(ささ)げようと墓前で唱(うた)った。何か心がスーと晴
れるような思いがした≫
平成7年から毎年、墓前祭に参列している中川耕二(1930年〜、四高─金沢大)によれば、
「(四高のOBらが)地元の人たちが今も毎年、墓前祭を執り行っていると聞き、最初は信じ
られなかったというが、実際に訪ねてみると、本当だった。昨年は(参列者は)700人ぐらいに
なりました」
中川は八田の四高の後輩であり、同じく技術者である。定年後に“八田の仕事”を調べ始め
たきっかけは、八田が手掛けた烏山頭(うざんとう)ダムだった。
「私もかつてダムの仕事を手掛けたことがあり、烏山頭ダムで採用した『セミ・ハイドロリ
ック・フィル工法』について聞かれたことがあったのですが、私は知らなかった。しゃくだか
ら調べ始めたのです。調べていくうちに、八田さんが人間としても、技術者としても凄(す
ご)いことが分かりました」
八田の仕事を調べてゆくうちに中川は、八田と同郷・同窓で台湾総督府の技手となった「2人
の後輩」を知ることになる。
◆知られなかった2人の後輩
平成23(2011)年、台湾の元台北駐日経済文化代表処代表・許世楷(1934年〜)から関係者
を通じて“人捜し”の依頼があった。日本統治時代の昭和7(1932)年に台湾・台中につくられ
た「白冷圳(はくれいしゅう)」という農業用水路の通水80年記念を翌年に控えて、「設
計した日本人技師の関係者を捜している」というのである。
日本人の名は、磯田謙雄(のりお)。白冷圳がどれほど貢献したか。許世楷夫人の盧千
恵(1936年〜)が同年10月21日付「産経エクスプレス」に書いたコラムの一部を引いてみたい。
≪1927(昭和2)年、当時の日本帝国議会で145万円(今の55億円相当)の予算が通り、翌年工
事が開始されました。22のトンネルと14の水路橋、さらに、大甲渓中流の白冷台地と新社台地
の高低差(22・6メートル)を利用して、水を移動させる3つの逆サイホン装置も作りました。
(略)1999年の大震災で、山に変動が起こるまで、68年間絶え間なく、灌漑と生活用水を送り
こんできたと、台中の農田水利局の幹部は誇らしげに、自分の身内のことを話すように、日本
の国会議員に話していました≫
磯田は、八田とまったく同じコース(一中─四高─東大)をたどり、「8年遅れ」で台湾へ来
ている。昭和17年に八田が不慮の死を遂げたときに磯田が寄せた追悼文に「八田との出会い」
が綴(つづ)られている。≪台湾の土を踏んだ−大正七年八月−私は知己も少なく、様子は分
からず、宿の事等困って居ると「丁度(ちょうど)今は家内が内地に行って僕一人だから…」
と云(い)って下さったのが八田さん。これをきっかけに私は御宅(おたく)の離れに御厄介
になる事になった》(17年9月、台湾水利協会発行『台湾の水利』)
磯田は八田に公私ともにかわいがられた。八田が指揮した嘉南大圳の現地調査に同行す
るなどサポート役を務める一方で、白冷圳のような仕事を独自にやり遂げている。
もうひとりの“知られざる後輩”は、やはり八田、磯田と同郷・同窓で、磯田の13年後(昭
和6年)に台湾に赴任した宮地末彦(みやじ・すえひこ)である。農業土木の専門家で、八田が
つくった烏山頭ダムなどの維持管理や水を効率的に使うための輪作制度の実施に貢献したという。
宮地は17年5月8日、八田が遭難したとき部下として同行していた。八田は亡くなったが、宮
地は撃沈された「大洋丸」から着衣のまま懸命に泳いで救命ボートに引き上げられ、九死に一
生を得ている。後に記された「遭難の記」には、その様子が生々しく綴(つづ)られており、
「八田さん(ら)とは遂(つい)に再び会う事が出来なかった」と短く書き残しているのが印
象的だ。
磯田も宮地も、八田に仕込まれて、台湾の近代化に貢献する仕事をやった。志を受け継いだ
というべきかもしれない。宮地は八田から「ダムは50年の命だ。次のことを考えろ」と指示さ
れ、新たなダムの計画を練っていたという。
脚光を浴びた八田に比べ、特に日本では「2人の後輩」のことは、ほとんど知られていない。
中川は、「3人一緒に功績をたたえるべきではないか」と話す。ただそれは、恩恵を受けた台湾
の人たちが一番よく知っているのではないか。盧のコラムはこう書いている。
≪大地震で(磯田が設計した)逆サイホンが使えなくなりました。そのときになって、3万人の
住民は、当たり前のように使っていた白冷圳から流れてくる水が、どれほど、自分たちの
生活をうるおしていたかを再認識したのです。(略)大震災の後、毎年、通水が始まった10月
14日には記念会が持たれるようになりました。朝早く村人たちは大人も子供も、夜のお誕生会
の前祝いに白冷圳の清掃をしました≫と。
=文中敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)
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■八田與一(はった・よいち) 明治19(1886)年、石川県出身。旧制第四高等学校(二部工
科)から、東京帝国大学工科大学卒。同43年、台湾総督府の技手となり“不毛の地”と呼ば
れた台湾南部嘉南(かなん)平野に、烏山頭(うざんとう)ダムをはじめとする大規模灌漑
(かんがい)施設「嘉南大圳(たいしゅう)」を設計・建造。同地の耕地化、穀物の増
産化に大きく貢献した。昭和17(1942)年、軍の指令でフィリピンに向かう途中、乗船して
いた「大洋丸」が米軍潜水艦に撃沈され死去、享年56。
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■第四高等学校(旧制) 1887(明治20)年、金沢に設立された(当時は高等中学校)。略称
は「四高(しこう)」。開校にあたっては、旧藩主の前田家が大金を寄付したという。校風
は「超然主義」。主な寮歌は『南下軍の歌』『北の都』など。主な出身者に、哲学者の西田
幾多郎(きたろう)、作家の井上靖、読売新聞社主を務めた正力松太郎などがいる。