5月7〜11日に台湾で開催された「第15回台湾李登輝学校研修団」(日本李登輝友の会主
催)に、日本李登輝友の会岡山県支部(略称:岡山李登輝友の会)の顧問として参加した。
台湾で最も愛される日本人の1人「八田與一」(1886〜1942年)の命日の5月8日、馬英九
総統や作家の司馬遼太郎から「老台北」と称された蔡焜燦(さい・こんさん)氏、台南市長、
森喜朗元首相、八田與一一の遺児、故郷である金沢市からの女性を含む二百数十人の経済
同友会会員、そしてわれわれ日本李登輝友の会などの参加の下、八田與一記念公園完成式
典と慰霊祭が盛大に挙行された。
八田與一は台湾では神のごとくまつられ、地元「水利組合」によって銅像やご夫妻の墓
が造られ、毎年お祭りが行われている。
八田は大正9年から10年の歳月をかけて「烏山頭ダム」と網の目のような「灌漑(かんが
い)用水路」(2万4千キロ、万里の長城の約6倍)を造り、洪水・干魃(かんばつ)・塩害
の三重苦の未開発地であった台湾の嘉南平野約15万ヘクタール(香川県ぐらいの広さ)を
見事な穀倉地帯に変貌させた。
当時の費用は5400万円。台湾総督府の年間予算が5000万円だっただけに、いかに巨額で
あったかがわかる。費用は日本政府、総督府の予算、組合員の拠出金、日本勧業銀行から
の借り入れでまかなわれた。
しかし、水利開発調査のため、フィリピンへ船出した昭和17年5月8曰、五島列島沖で米
国潜水艦に乗船していた大洋丸が撃沈され死去。享年57歳だった。夫人の外代樹(とよき)
は敗戦直後の20年9月1日、八田夫妻が生涯をささげた台湾を去ることを拒否、夫の後を追
い、烏山頭ダムの取水口に45歳の若さで投身自殺した。台湾人が八田を神様としている由
縁である。
台北では蔡焜燦、台湾独立建国連盟主席の黄昭堂、元駐日大使の許世楷、評論家の黄文
雄各氏らの講演があった。
しかし、今回の訪台でわれわれは恥ずかしい思いをしなければならなかった。東日本大
震災の当日夜には、李登輝元総統がお見舞いのメッセージを発信され、義援金の額をうん
ぬんするのはいかがかとは思うが、中国は人口13億人余りで3億数千万円、片や人口2300万
人の台湾の人たちは、3月末で100億円を突破し、現在は200億円を超えている。
文字通り桁違いであるにもかかわらず、日本政府は4月11日に「感謝広告」を世界の7紙
に掲載したが、“世界一の義援金”を集めた「台湾」を外したのである。
日本人有志はその日本政府の非礼に対し、現地の新聞に「感謝」の広告を掲載した。そ
して、改めて「世界一の親日国」「困ったときに助けてくれる本当の親戚(しんせき)」
といえる台湾との絆を強くしなければ、と考えさせられた今回の「李登輝学校」であった。