2009.7.15 産経新聞
台北支局長・山本勲
台湾「高砂義勇兵」戦没者の記念碑再建に尽力し、先月28日に亡くなった簡福源(民族名タリ・ワタン)さんの葬儀が昨日、台北県烏来(ウライ)郷でしめやかに行われた。生前の簡さんの口癖は「自分が今日あるのは日本のおかげ」だった。親日家が多い台湾でも誰よりも日本を愛した簡さんに感謝と哀悼の意をささげる一方、明日の日台関係を築くわれわれ戦後世代の責任の重さを痛感させられた一日だった。
簡さんは1931年6月30日、日本植民地時代の烏来郷の先住民(日本時代は高砂族と総称)タイヤル族の部族長家に生まれた。日本名は「山田正太郎」、6歳から日本教育を受け、太平洋戦争では少年志願兵として飛来する米軍機を監視した。
日本軍が組織した先住民部隊、高砂義勇兵(6千〜8千人)としてニューギニアで戦死した叔父のあだ討ちをするつもりだった。学校と軍隊で日本精神をたたき込まれた。「日本精神は誠の精神。当時の日本軍人はまっすぐで正しかった」(簡さん)
しかし敗戦で日本兵が一斉に日本に帰り、「なぜ僕らも帰らないのとおじいさんに聞くと、『内地の人とは違う』と言われた」「ああ僕は日本人じゃなかったのか」と初めて実感した。簡さんはこの思い出を語るたび涙ぐんだ。それほど日本人意識が強かった。
戦後、台湾を統治した蒋介石・国民党政権は徹底的な日本否定を行った。しかし簡さんは日本教育をバネに台湾最年少の県議会議員に当選、烏来郷長を2期務めるなど地元の有力者として活躍を続けた。日本の桜3千本を烏来に移植したり、九州の姉妹都市との交流などで日本を20回以上訪れたりし、日台の民間交流に努めた。
だが簡さんの最大の苦難は晩年に突然やってきた。タイヤル族の長でおばの周麗梅さんを中心に、92年に烏来に建立した高砂義勇兵記念碑が撤去の危機を迎えたのが発端だった。
記念碑の敷地を提供していた観光会社が2003年の新型肺炎(SARS)流行で倒産、翌年には記念碑を移設せざるを得ない事態に追い込まれたためだ。
「周さんはすでに亡く、長男の邱克平(マカイ・リムイ)さんやおいの簡さんが対応に苦慮している」との産経新聞報道を機に、日本から3千万円を超える義援金が寄せられた。
06年2月、この資金をもとに台北県から提供された県有地にやっと移設を終えると、今度は親中国系紙、「中国時報」が県有地は「日本に占拠された」と報道。
連動するように新任の周錫●県長(国民党籍)が、日本の遺族団体などが寄贈した石碑(8基)を「天皇称賛の誤った歴史認識が含まれている」として撤去、記念碑の碑文まで竹で囲って封印した。
「日本の皆さんになんとおわびしたらいいのか」。簡さんは事件後、現地を訪れた日本人関係者にこう謝る一方、原状復帰を求める法廷闘争に全力を挙げた。そのかいあってこの3月24日、台湾高等行政法院が台北県の撤去処分に対する撤回命令を出し、事件はようやく本格解決に動き始めた。
それから3カ月、簡さんは肩の荷をおろすように亡くなった。「3年間の心労が簡さんの健康を大きく損なった」と語るのは法廷闘争を全面支援した黄智慧・中央研究院所員。誰よりも日本を愛し日台交流に尽くした簡さんの後継者が双方から澎湃(ほうはい)と登場するよう願ってやまない。
●=王へんに韋