最も日本を愛した台湾人 [産経新聞台北支局長 山本 勲]

先に本誌でお伝えしたように、6月28日に亡くなられた烏来郷高砂義勇隊記念協会理事
長だったタリ・ワタン(簡福源)さんの告別式が台北県・烏来(うらい)で行われた。本
会からは小田村四郎会長の名代として薛格芳理事と台湾在住の早川友久理事が参列した。

 後日、ホームページでその模様を掲載の予定だが、参列した産経新聞の山本勲・台北市
局長が今朝の紙面で「最も日本を愛した台湾人」と題してつづっている。

 タリ・ワタンさんらが護ってきた「高砂義勇隊慰霊碑」台座には、高砂義勇隊と縁が深
く、「台湾軍の歌」を作詞した本間雅晴中将の遺詠「かくありて許さるべきや密林のかな
たに消えし戦友(とも)をおもへば」が刻まれている。密林の彼方に消えたのは高砂義勇
兵だ。本間中将の遺詠に触れるたび、そこに高砂の友を、台湾人を思う日本人のすべての
思いが込められているような気がしてならない。

 改めてタリ・ワタンさんの御霊に追悼の意を表してご冥福をお祈り申し上げるとともに、
速やかなる高砂義勇隊慰霊碑の現状復帰を願う。

                 (メールマガジン「日台共栄」編集長 柚原 正敬)


最も日本を愛した台湾人 台北支局長・山本勲 
【7月15日 産経新聞「東亜春秋」】

 台湾「高砂義勇兵」戦没者の記念碑再建に尽力し、先月28日に亡くなった簡福源(民族
名タリ・ワタン)さんの葬儀が昨日、台北県烏来(ウライ)郷でしめやかに行われた。生
前の簡さんの口癖は「自分が今日あるのは日本のおかげ」だった。親日家が多い台湾でも
誰よりも日本を愛した簡さんに感謝と哀悼の意をささげる一方、明日の日台関係を築くわ
れわれ戦後世代の責任の重さを痛感させられた一日だった。

 簡さんは1931年6月30日、日本植民地時代の烏来郷の先住民(日本時代は高砂族と総称)
タイヤル族の部族長家に生まれた。日本名は「山田正太郎」、6歳から日本教育を受け、
太平洋戦争では少年志願兵として飛来する米軍機を監視した。

 日本軍が組織した先住民部隊、高砂義勇兵(6千〜8千人)としてニューギニアで戦死
した叔父のあだ討ちをするつもりだった。学校と軍隊で日本精神をたたき込まれた。「日
本精神は誠の精神。当時の日本軍人はまっすぐで正しかった」(簡さん)

 しかし敗戦で日本兵が一斉に日本に帰り、「なぜ僕らも帰らないのとおじいさんに聞く
と、『内地の人とは違う』と言われた」「ああ僕は日本人じゃなかったのか」と初めて実
感した。簡さんはこの思い出を語るたび涙ぐんだ。それほど日本人意識が強かった。

 戦後、台湾を統治した蒋介石・国民党政権は徹底的な日本否定を行った。しかし簡さん
は日本教育をバネに台湾最年少の県議会議員に当選、烏来郷長を2期務めるなど地元の有
力者として活躍を続けた。日本の桜3千本を烏来に移植したり、九州の姉妹都市との交流
などで日本を20回以上訪れたりし、日台の民間交流に努めた。

 だが簡さんの最大の苦難は晩年に突然やってきた。タイヤル族の長でおばの周麗梅さん
を中心に、92年に烏来に建立した高砂義勇兵記念碑が撤去の危機を迎えたのが発端だった。

 記念碑の敷地を提供していた観光会社が2003年の新型肺炎(SARS)流行で倒産、翌
年には記念碑を移設せざるを得ない事態に追い込まれたためだ。

 「周さんはすでに亡く、長男の邱克平(マカイ・リムイ)さんやおいの簡さんが対応に
苦慮している」との産経新聞報道を機に、日本から3千万円を超える義援金が寄せられた。

 06年2月、この資金をもとに台北県から提供された県有地にやっと移設を終えると、今
度は親中国系紙、「中国時報」が県有地は「日本に占拠された」と報道。

 連動するように新任の周錫●県長(国民党籍)が、日本の遺族団体などが寄贈した石碑
(8基)を「天皇称賛の誤った歴史認識が含まれている」として撤去、記念碑の碑文まで
竹で囲って封印した。

 「日本の皆さんになんとおわびしたらいいのか」。簡さんは事件後、現地を訪れた日本
人関係者にこう謝る一方、原状復帰を求める法廷闘争に全力を挙げた。そのかいあってこ
の3月24日、台湾高等行政法院が台北県の撤去処分に対する撤回命令を出し、事件はよう
やく本格解決に動き始めた。

 それから3カ月、簡さんは肩の荷をおろすように亡くなった。「3年間の心労が簡さんの
健康を大きく損なった」と語るのは法廷闘争を全面支援した黄智慧・中央研究院所員。誰
よりも日本を愛し日台交流に尽くした簡さんの後継者が双方から澎湃(ほうはい)と登場
するよう願ってやまない。

●=王へんに韋



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