https://www.nippon.com/ja/column/g00463/
台湾が日本の統治下に置かれた半世紀。1923年4月、のちに昭和天皇となる皇太子裕仁(ひろひ
と)親王は摂政の立場で12日間、台湾に滞在した。交通が不便な東海岸や中部山岳地帯には足を伸
ばさなかったものの、主要都市をほぼ訪れている。視察先は62カ所にものぼり、催された祝賀行事
は232にも及んでいる。まさに、台湾総督府にとっては空前絶後の一大行事であった。
この台湾行啓が実現したのは第8代台湾総督の田健治郎(でんけんじろう)の時代だった。当初
は西欧外遊の帰途に台湾に寄ることが計画されたが、長旅で日程の調整も難しいということから帰
国後、改めて議論された。
そして、4月5日に出発することが一度は決まったものの、フランス留学中の北白川宮成久(なる
ひさ)王が4月1日に自動車事故に遭い、パリで死去するという事件が起こった。これを受けて皇太
子の台湾行啓は延期となった。
結局、4月12日に皇太子はお召し艦「金剛」で横須賀を出発し、16日に基隆に入港した。
◆台湾の主要都市を巡る
一行が上陸したのは午後1時25分だった。基隆港駅前桟橋では台湾総督府鉄道部長の新元鹿之助
が出迎えた。一行はそのまま駅に進み、この日のために仕立てられた特別列車に乗り込んだ。
台北駅に到着したのは午後2時20分。海軍軍楽隊が君が代を演奏し、一行を出迎えた。駅前は清
められ、特設の奉迎門が設けられた。沿道は奉迎の団体や一般市民で埋め尽くされ、この日だけで
10万もの人が出迎えに上がったとされる。この頃の台北市の人口は17万人程度とされるので、この
数字がいかに大きなものかが理解できる。
台北での宿泊所となったのは台湾総督官邸だった。現在は台北賓館の名で迎賓館として使用され
ている。ここは台湾政府から歴史遺産の指定を受けており、年に数回の一般公開日が設けられている。
注目したいのは、敷地内の庭園に亜熱帯性植物が選ばれ、植樹されていたことである。これはマ
ラリアをはじめとする疫病がまん延していた時代、要人が地方都市に赴かなくても、台湾らしい南
国風情を楽しめるようにという配慮だった。
一行は2日間の台北市内視察の後、台中へと向かっている。列車には台湾総督の田健治郎が同行
し、途中、桃園台地を通過の際、農業用水路とため池についての説明をしている。ちなみに、桃園
台地は世界でも有数のため池密集地で、台湾行啓は桃園大圳(農業用水路)の工事のさなか
だったこともあり、解説にも力が入ったと推測される。なお、このため池群は現在も数多く見ら
れ、台湾高速鉄路の車窓から眺められる他、台湾桃園国際空港に離着陸する際にも眼下に確認できる。
下車駅となったのは新竹駅で、1913年に完成した駅舎に降りたっている。この駅舎は直線を多用
したドイツ風バロックと呼ばれるスタイルで、基隆、台中と並び、台湾の三大駅舎に挙げられてい
た。現在もその姿を保ち、東京駅丸の内口駅舎と姉妹駅協定を結んでいる。
◆新高山に対し、次高山を命名
新竹を出た一行は台中に向かった。その途中、車中で台湾第二の高峰シルビヤ山の説明を受け
る。標高は3886メートル。台湾第一の高峰である新高山(現称・玉山)を明治天皇が命名したこと
を受け、これを「次高(つぎたか)山」と名付けた。その後、台中に1泊した後に台南を目指して
いる。途中、嘉義駅通過後には北回帰線標を車窓に眺めている。
台南の宿泊所となったのは台南州知事官邸だった。皇太子宿泊所が現存するのは台北と台南だけ
で、史跡の指定を受けている。館内の見学も可能で、古写真やパネル展示がある。市民の関心は高
く、台南市内の行啓地点を紹介したパンフレットが用意され、そのコースを巡る旅が人気を集めて
いる。
高雄市内を21日に視察し、翌22日は屏東にある台湾製糖株式会社の工場を訪ねている。ここでは
特設休憩所で台湾特産の麻竹に新芽を発見。これは後に「瑞竹」と称揚されるようになった。工場
はすでに操業を停止しているが、施設の一部が産業遺産として保存されている。
また、この日は打狗(高雄)山と呼ばれていた丘に登頂し、高雄の町並みと港を眺めている。こ
の視察を記念して後日、打狗山は「寿山」と改名された。ここは現在も高雄を代表する景観スポッ
トとなっており、行楽客でにぎわっている。
23日は高雄港から澎湖島の馬公へ渡った。海軍の要港部を視察後、船中泊で基隆へ向かい、台北
に戻った。
当時の交通事情を考えると、行程はかなり詰まった印象だが、遅れが生じることはほとんどな
く、順調に最終日となる27日を迎えた。午前7時10分、皇太子を乗せた特別列車は台北駅を離れ、
基隆へと向かった。
◆貴賓車は今も残されている
台湾行啓では特別列車が仕立てられた。列車をけん引したのはE500型蒸気機関車と呼ばれたもの
である。日本では8620形と呼ばれる形式で、台湾には44両、在籍していた。列車は8両編成で(機
関車を含まず)、山岳区間となる苗栗~后里間は最後部に補機を増結して勾配に挑んだ。
車両についても、貴賓車と称されるものが用意された。台湾総督府鉄道部には2両の貴賓車が在
籍し、皇太子行啓に合わせて新造された「ホトク1」、そして、台湾総督専用の「コトク1」があった。
両客車ともに日本本土から派遣された技師が設計し、用材には紅ヒノキと米国から輸入された松
が用いられた。鋼鉄類についても欧米から輸入されたものだった。
車体は紫色に塗られ、側面に菊の紋章がはめ込まれていた。また、台湾南部での暑さを考慮し、
当時としては非常に珍しい扇風機が設置されていた。
皇太子用に新造されたホトク1型は1913年3月に完成した。車体長16・4メートルの木造客車で、
客室の他、配膳室と従者の控室があり、トイレは洗面台が壁に埋め込まれたスタイルだった。ま
た、車内には明治の画家・川端玉章の蒔絵(まきえ)が掲げられていた。
台湾総督用のコトク1型は1904年10月に完成した。車体長は13・988メートルで、客室の他、食
堂、配膳室、洗面室、化粧室、予備室を備えていた。
現在、この2両の貴賓車は台北郊外の七堵操車場に保存されている。専用の車庫が用意されてお
り、その中に並べられている。一般公開されるのは特別イベントの際に限られるが、公開が決まる
と、決まって申し込みが殺到する。
車齢100年という長さを考えてみると、この客車が原形を保っているのは奇跡に近いと言えよ
う。特に台湾総督用のコトク1型客車は110年以上の歴史を誇り、その価値は計り知れないものがあ
る。台湾鉄路管理局はこの2両の客車を歴史遺産として扱い、永遠に守っていく予定だという。
台湾では民主化の進行に伴い、冷静でかつ、客観的な評価の下、日本統治時代の半世紀を捉える
動きが定着している。皇太子の台湾行啓もまた、台湾史の一部として認識されており、関心は高
い。日本人が知らない日本の歴史。台湾で皇太子の足跡を訪ねてみてはいかがだろうか?
◇ ◇ ◇
片倉 佳史 KATAKURA Yoshifumi
台湾在住作家。1969年神奈川県生まれ。早稲田大学教育学部在学中に初めて台湾を旅行する。大学
卒業後は福武書店(現ベネッセ)に就職。1997年より本格的に台湾で生活。以来、台湾の文化や日
本との関わりについての執筆や写真撮影を続けている。分野は、地理、歴史、言語、交通、温泉、
トレンドなど多岐にわたるが、特に日本時代の遺構や鉄道への造詣が深い。主な著書に、『古写真
が語る 台湾
日本統治時代の50年 1895―1945』、『台湾に生きている「日本」』(祥伝社)、
『台湾に残る日本鉄道遺産―今も息づく日本統治時代の遺構』(交通新聞社)等。
オフィシャルサイト「台湾特捜百貨店」:http://katakura.net/
—
台湾の声