メルマガ「はるかなり台湾」より転載
昭和16年卒 坂口淳一郎
かっては日本人の誇りのもとに、台湾の青少年たちは、陸海軍に志願し死地へ飛び込んで行きました。亡父が台中州
東勢郡警察課時代、部下の高砂族青少年から義勇隊志願者を募り、選抜して台車の軌道で義勇刀を造り「彼らに持た
せるのだ」と言っていたのを思い出します。その募集に当たっては、如何なる条件を掲げていたのだろうか。
戦地では内地人将兵には出来ない大活躍、大奮戦で如何程の将兵が救われたことか。また敗戦故に戦犯とされ刑死、
或いは長い獄中生活を送られた方もありました。
然るに日本は掌を返すように、日本人ではなくなったからと、援護の手は延べず、慰労感謝の言葉もありません。
日本国民の声に押されて、戦没者に漸200万円の弔慰金を支給しましたが、その際に「今後補償請求など一切致しま
せん」と念書を書かせたのです。日本人として生まれ、日本人として戦い、日本のために戦死されたのにもかかわらず、
日本の遺族との援護の差は、ここに書くのも憚れます。戦死された御遺族にも、地獄の戦場から帰還された方々にも、
慰労金も年金もありません。最高裁は、立法の問題であると国会に下駄を預けましたが、政府にも国会にも、御恩に
報いようという動きはありませんでした。
台北在住の作家、柳本通彦氏は「元高砂義勇隊員から『もうこの齢になってお金はいらない。ただあの戦争に行った
証が欲しい。ブリキでいいから勲章を貰ってくれ』と言ってきた。援護の問題は国の名誉、品格の問題である。
もう一刻の猶予もないときに来ている」と書いています。
日本は信義の国、信義の民と信じてきた彼らを日本は裏切りました。この国の態度を平気で当然としている日本国民を
私は憤り悲しみます。敗戦までは同胞戦友であった彼らに対する差別は許せません。戦没者の親御様は、とっくにご他
界でしょうが、日本のために一命を捧げたわが子を思う時、その嘆き口惜しさは如何ばかりか、と媽々の日にはひしひ
しと感じるのです。私はそれでも黙っている台湾人が愛おしくてなりません。
この非情な日本を、今なお心の祖国と慕っている台湾人を、如何に思いますか。ある年の慰霊祭の後、日本人一行に歓
迎会を催して下さったことがありました。私はその席において、一人のご遺族に「靖国の神となられた方のご遺族に、
厚い援護の手も差し伸べず申し訳ありません」と申し上げるとその方は「援護も補償もいりません。戦死したのは憧れ
からと言ったらいいでしょうか」と答えられました。この憧れとは何なのか考えてみてください。台湾人のお母さんも
哭いて堪えられたのです。台湾の友人は「本当の日本人になる夢は消えましたが、今後も親しくご厚誼を」と文をく
れました。台湾の人々は悲しい酷い犠牲を払いましたが、日本はそれに何の痛みも覚えておりません。彼らは日本
に見捨てられた日本人です。
この捨てられた日本人戦没者へ、私はせめて年に一度の慰霊祭には報恩の想いを新たにしたいと参加して参りました。
主催が台日海交会、中日海交会なので、日本からの参加は元予科練、陸海軍関係者、福岡市の日華親善団等約50名、
そして台湾のご遺族、有志の方々が100名参加され、厳かに催されて参りましたが、参加者の高齢化により年々寂しく
なっています。
私ども湾生には齢を重ねるごとに懐かしい故郷、故郷の人々なのです。台湾を知らない人々に、台湾人を理解せよと
までは思いませんが、台湾にお世話になった私どもが、兄弟として励まし睦みあう先頭にたつべきでした。69年の間、
台湾人の好意に甘えに行ったことはあっても、慰霊祭には一度も参加していないのではありませんか。台湾台中市明治
小学校卒業者も在学中であった方々も、みんな老齢となり台湾往復も億劫になりました。会報も今回で終わりです。
皆さまのお元気な間に、今年の11月25日台中市の宝覚寺の霊安故郷碑慰霊祭に参加しようではありませんか。
(追記)台中の宝覚寺に、戒厳令が解除されたのを機に1990年11月25日に建てられた「和平英魂観音亭」と
李登輝元総統の筆による「霊安故郷記念碑」があります。案内板には日本語で「大東亜戦争台湾住民元日本人軍属戦
没者3万3千余柱と台湾住民戦争犠牲者の霊を祀る」と書かれています。またそばには日本人墓地もあり、台湾に来
られた際は、台湾の靖国神社にぜひ立ち寄ってお参りしてください。