大陸中国との分離は幸運
自由と民主主義定着した台湾
平成国際大学教授 浅野 和生
「中共に渡すよりも 台灣は日本に還せ」とアメリカ上院外交委員長のトム・コナリー上院議員が語った、とは1949年12月31日の読売新聞夕刊1面トップ記事が伝えたところである。この月のはじめ、中華民国政府職員は四川省の臨時の首都、成都から撤退を開始し、7日には中央政府機構が台湾に移転した。これと踵(きびす)を接して、蒋介石、蒋経国親子が台湾入りしたのは10日である。中華民国は、大陸中国を放棄して、台湾に居を移すことになった。今からちょうど70年前のことだ。
その時、戦後の国連、北大西洋条約機構(NATO)の発足の際に活躍したコナリー委員長は「もし日本人が今後侵略的でなく紳士的な態度を示すならば」という条件付きで、先の発言に及んだ。
<<絶望的闘い続ける香港>>
去る10月1日、中華人民共和国は北京の天安門広場で、建国70周年祝賀の式典を開催し、壮大な軍事パレードを実施し、習近平国家主席は建国以来の成果を自画自賛した。これとは異なり、台湾の中華民国は、大陸から台湾への撤退70年を祝いはしない。
それは大陸を離れた国府軍、政府関係者には不名誉な、悔しい思い出であり、それらの人々迎え入れた台湾の人々には、新たな苦難の日々の始まりだった。祝賀式典どころではない。
70年前の12月10日、台湾行政長官であった陳誠は行政会議で33項目の「全島防衛政策」を決定している。そこには「各級の党政機関公務、教職員を急速に訓練、相当程度に達したらすべてこれを武装させる」「30歳以下の婦女子は看護婦、30歳以上45歳以下は炊事裁縫婦となる」と、国家総動員体制構築が謳(うた)われていた。
しかし、今から振り返れば、70年前の中華民国台湾移転は、寿(ことほ)ぐべき結果になったのではないか。無論、この間に、命懸けで台湾の民主化を求め、人生の大半を犠牲にして台湾独立運動を展開した人々の、また、中華民国体制の内にあって、中華民国の台湾化に努め、民主改革を粘り強く続けた、李登輝元総統をはじめとする先人たちの、労苦があったことを忘れてはならない。そして、数々の犠牲者の冥福を祈るばかりである。
それでも、来年1月11日の総統選挙および立法委員総選挙に向けて、自由に政策を語り、自由に運動する、各党の候補者、支援者の姿を見るとき、台湾の今を寿がずにはいられない。台湾海峡の対岸では、国民の意思を問われることなく14億人の指導者が決定され、世論と無関係にその在任期間制限が撤廃された。そして香港には、次第に暴力をむき出しにしつつある特別行政区政府と、その背後の勢力を相手に、絶望的な闘いを続ける学生、市民の姿がある。
アメリカ議会では二大政党、上下両院のほぼ全会一致で、11月20日に「香港の人権と民主法(The
Hong Kong Human Rights and Democracy Act of
2019)」が成立し、28日にトランプ大統領が署名した。香港の人々を支援するオール・アメリカの声が響き渡ったが、主権が中国の手にある香港の明日は、暗い。
一方、台湾について見れば、70年前のコナリー上院議員の提言は、良い意味で的外れに終わった。台湾は中国共産党軍の爪牙(そうが)に犯されることなく、日本の支配に服することもなく、台湾人の台湾として今日まで存続し、なおかつ民主主義を実現し、経済発展を遂げてきた。
<<自分たちの意志で国造り>>
ところで、「もし国共内戦で国民党が敗れなかったら」、台湾は大陸中国を支配する中華民国の小さな一省であった。法の支配の経験がなく、賄賂が横行する中国の一部であり続けたら、台湾に今日の自由と民主が実現したと想像することは難しい。
確かに70年前、国民党政府の台湾移転は、国民党関係者にはみじめな撤退の経験であり、台湾の人々には、新たな苦難の始まりであった。しかし、中国大陸と切り離されたおかげで、台湾の人々は、自分たちの意志で自分たちの明日を決められる国を造り上げることができた。そして今や、総統府前で軍事パレードが行われることはなく、独裁者の演説を市民が聞くこともない。
慶賀すべきではないか。
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