【日本時事評論:平成25年8月2日(第1781号)「天録時評」】
蒋介石総統の率いる国民党軍は、昭和24年(1949)に中国共産党軍との国共内戦に敗
れ、台湾に敗走した。中華民国の臨時政府の首都を台北とし、国民党による本格的な独裁
政が始まった。大陸反攻を国是とした国民党政府は、軍事優先の独裁政治を行い、台湾人
の政治活動や思想を監視、国民党政権や国民党に対する批判者を摘発し、公開の裁判なし
に断罪した。
この弾圧政治の象徴であった戒厳令が解除されたのは、実に施行以来38年目を迎えた昭
和62年(1987)であった。内外の台湾人の民主化運動と米国議会の圧力の成果であった
が、同時に独立運動などを取り締まるための国家安全法が施行された。昭和63年(1988)
に蒋介石を継いだ最高権力者の蒋経国総統が急死し、副総統であった台湾人の李登輝氏が
総統に昇格したことで、民主化への大きな流れが始まった。平成4年(1992)には台湾史上
初めての総選挙と言える立法院の選挙が行われ、平成8年(1996)3月、住民の直接選挙に
よる総統選出が実施され、李登輝氏が当選した。これにより、国民党一党による独裁政治
に終止符を打った。平成12年(2000)には民進党が総統選で勝利し、政権交代が行われ
た。
◆日台関係に法的裏付けを!!
台湾の歴史を大雑把に振り返ったが、日本統治時代の同化政策以降から敗戦までに教育
を受けた台湾人が、今も現存する台湾の日本語世代である。彼らの多くが親日的である
が、彼らの思いは単純ではない。台湾語などの使用を禁止されたことをはじめ、日本人と
の差別が存在した。同化政策によって、当初の分離政策時代のあからさまな差別は少なく
なったものの、日本人による差別などの屈辱を味わっている。しかし、優秀な学生には、
台北帝国大学や師範学校あるいは内地の帝国大学への道が開かれていた。
一方、国民党の独裁政治で日本語は禁止され、北京語の使用が強制された。そのために
日本統治時代の優秀な生徒にとって、まさに世界は暗転してしまった。とりわけ、二・二
八事件以降、日本の教育を受けた知識人、地域で人望のあった人々が不当逮捕され、処刑
されるなど、本省人への差別は過酷を極めた。日本から帰国した留学生、あるいは日本兵
として参戦していた若者には職もなかった。
こうした台湾人の苦境に対して、わが国は何らの手を差し伸べることもなかった。昭和
27年に日華平和条約を締結するが、日本人として教育を受け、日本への愛着を持っている
人々が弾圧されるのをただ傍観するだけだった。さらには日本人として戦い、亡くなった
人々に対してもわが国は補償を拒み続け、昭和62年になってようやく一律200万円の弔慰金
を払ったが、シベリアに抑留された台湾人に対しては何の補償もしていない。これでは日
本は「台湾を見捨てた」と言われても仕方がない。
さらに昭和47年の日中国交正常化により、わが国は中華民国との国交を断絶した。これ
以降、日台交流の窓口は、日本が「交流協会」、台湾が「亜東関係協会」となり、法的な
裏付けがないまま取り決めを交わして、ビザの発行から船舶、航空機の出入国、経済や投
資などが行われている。国と国との関係を一民間機関が担うという変則的な形のまま、現
在に至っているのである。
日本の交流協会の実質責任者は外務省の中国課から出向しているにもかかわらず、国か
らの予算もなく、国会の監督も受けない。台湾側の駐日台北経済文化代表処は国家の予算
で運営され、国会の監督も受けている。しかし、台湾の駐日外交官が日本の政府機関に接
触することを、日本政府が内規で禁止している。一方で、日本の駐台湾外交官は台湾のい
かなる政府要人とも接触できる。こうしたいびつな関係は台湾の親日感情を蝕(むしば)
むことは明らかだ。
わが国と同様、台湾と国家関係を持たない米国は、中華民国との断交とほぼ同時に、台
湾関係法を国内法として制定している。主な柱は、台湾の平和と安定がアメリカの国益に
合致すること、断行以前に締結した条約の有効性の存続、台湾への武器供与と台湾の安全
を守ることの義務付けなどだ。台湾は中国の一部になったわけでも、消えたわけでもな
く、米国にとって重要な存在に変わりない以上、その台湾にどのように対処していくかの
法的根拠が必要として制定した。
わが国にとっても状況は同じだ。台湾は中華人民共和国よりもはるかに民主的な運営を
行い、わが国と価値観を共有している。23力国から独立国として承認され、現実に存在し
ている。しかも、台湾の存在は中国が海洋強国を目指している現在、わが国の安全保障
上、重要性は増すばかりである。日台交流の法的裏付けとなり、台湾と国レベルで連携で
きる日台関係基本法(仮称)をわが国も早急に制定すべきである。
(了)