【台湾レポート】台湾電力の父「松木幹一郎」

【台湾レポート】台湾電力の父「松木幹一郎」

メルマガ「遥かなり台湾」より転載
    
             

日本と台湾の懸け橋になる会世話人 喜早天海

風光明媚な日月潭は観光地として有名ですが、この湖畔に日本統治時代に台湾に寄与した日本人
の胸像が二つも立てられています。この二つとも実は奇実実業の許文龍会長が寄贈されているの
です。その一つは(2006年11月1日紅茶試験場で紹介したことのある)新井耕吉郎で、も
う一つは台湾電力の父と称されている松木幹一郎です。
「その松木幹一郎って誰? 聞いたことがない」という人にためにネットで(ウイキペディア)
で検索すると下記のように紹介されています。

松木 幹一郎(まつき かんいちろう、1872年3月10日(明治5年2月2日) – 1939年(昭和14年)
6月14日)は、愛媛県に生まれ、明治から昭和初期にかけて活動した技術者、実業家。後藤新平の
信頼が篤く、東京帝国大学卒業後逓信省、鉄道庁に勤めた後、台湾電力社長、帝都復興院副総裁
などを務めた。
略歴
1872(明治5) 愛媛県周桑郡楠河村大字河原津で出生(現:愛媛県西条市河原津)
1887(明治29) 東京帝国大学法科大学法学科卒業,逓信省通信局勤務,文官高等試験及第
1899(明治32) 通信局郵務課長
1907(明治40) 鉄道運輸部庶務課長
1910(明治43) 鉄道院理事
1911(明治44) 東京市電気局初代局長
1914(大正2) 東京市参与
1917(大正5) 山下汽船総理事
1924(大正12) 財団法人東京市政調査会初代専務理事,帝都復興院副総裁
1929(昭和4) 台湾電力社長(1934 日月潭竣工)
1930(昭和5) 台湾総督府評議会員
1935(昭和10) 日本アルミニウム取締役
1939(昭和14) 社団法人台湾工業協会理事長,逝去(東京)
(以上,松木悠紀雄の調査に基づく)

同様に中国語のウイキで検索してみると台湾での動きがよくわかります。

松木幹一郎(まつき かんいちろう,1871年−1939年),日本愛媛縣人,台灣日治時期的台灣電力
株式會社社長,被尊為「台灣電力之父」。
生平(注:一生のこと)
1911年,松木幹一郎就任東京市電氣局(今東京都交通局)第一任局長。1923年,松木幹一郎就任
帝都復興院副總裁。1929年(昭和5年),日本議會通過對台灣日月潭工程再興案,派松木幹一郎
為台灣電力株式會社社長、新井榮吉為建設部長、石井林次郎為建設所長、官口竹雄為電氣顧問、
後藤曠二為主任技師等人負責執行。
1930年1月12日松木幹一郎就任台灣電力株式會社社長,1934年10月完成日月潭第一發電所,1937年
8月陸續完成日月潭第二發電所,並著手於北部火力發電所、霧社水力發電計劃,提出十年開發水力
發電三十萬瓩計劃。日月潭水庫總發電量14萬3500瓩,是當時亞洲第一、世界第七大發電所。松木
在台電任職期間,大力採用台籍人士如朱江淮、柯文?等人。
1939年(昭和14年)6月14日,松木去世,同年六月,北部火力發電所竣工。同年,台灣工業生?
比重已上升為28.22%,開始超越農業的24.97%;當時任主任技師的後藤曠二於松木去世後曾寫《松
木幹一郎》一書,台電遂於日月潭第一發電所進水口處豎立胸像以茲記念;惟此胸像於1943年大東
亞戰爭末期,被日人拆除融化做戰爭材料之用,僅留基座。
2010年,台電退休工程師林炳炎,因自力研究台電史,發願重塑松木幹一郎社長胸像。在奇美創?
人許文龍先生的資助下,2010年3月8日,新胸像重回67年空置的基座。

台湾で初めて発電工事を行った様子は次のネットをご覧になっても分かるように大変な難工事
だったようです。

日月潭公式ブログ(ダムの建設)
http://www.sunmoonlake.gov.tw/Japanese/AboutSMLJpa/HistoricalJpa/Historical03Jpa.htm

鹿島の軌跡 http://www.kajima.co.jp/gallery/kiseki/kiseki08/index-j.html

1999年台湾で発生した大地震で日月潭にある発電所はびくともせず被害がなく「日本時代に建て
られたものはすごい!」と称賛を浴びたそうです。

松木社長の逝去後に会社側では社長の功績を偲び胸像が立てられました。その碑文には下記の
ように記されていました。

碑文(原文は旧漢字使用)
「台湾電力株式会社長従四位勲二等松木幹一郎氏ハ明治五年愛媛県ニ生レ二十九年
東京帝国大学ヲ卒業シ、逓信省、鉄道院、東京市電気局長、山下汽船会社副社長
帝都復興院副総裁等ヲ歴テ昭和四年十二月台湾電力株式会社長ニ就任シ、爾来会社ノ重大使命
タル日月潭発電工事ノ完成並ニ会社ノ経営発展ニ努メコノ間毎ニ国策ニ順応シテ本島文化ノ開
発ニ寄与セラレタル功積亦実ニ偉大ナルモノアリ不幸ニ竪ニ罹リ昭和十四年六月十四日長逝セ
ラル社中ノ有志等相図リ胸像ヲ建テ永ク遺徳ヲ景仰ス
                           昭和十五年十月」

このようにしてたてられたこうしてできた胸像も戦争末期に物資不足から徴収され台座だけが
残されたままだったのです。今から3年前の平成22年(2010)3月、実に60余年ぶりに銅像が
復活したのです。その時の様子を東京中日新聞社が「台湾電力の父 故松木氏60余年ぶり銅像」
と題して下記のように報道しておりました。

「日本統治時代の台湾で発電事業に貢献した台湾電力社長松木幹一郎氏(1872〜1939)の業績
をたたえようと、戦時中徴用されたとみられる松木氏の銅像が多くの台湾人の協力によって60
余年ぶりに復活し、八日松木氏ゆかりの台湾中部、日月潭湖畔で披露された。
松木氏は愛媛県出身。29年に台湾電力の社長に就任後、30年代には当時はアジア最大の発電量
となる水力発電所を日月潭に完成させた。「この発電所がなければ今の台湾はない」と語り継
がれ、松木氏は「台湾電力の父」と言われる。
同社の技師で、社史も執筆した林炳炎さん(66)によると、松木氏の死後の翌1940年、会社が
銅像をつくったが、物資不足の大戦末期に徴用され、大理石の台座だけが残されたままだった。
林さんは昨年退職したのを機に、銅像を復活させて歴史を伝承しようと思いたち、若手の芸術
家に依頼した。資金面では著名な実業家、許文龍さん(82)が支えた。日月譚は台湾屈指の観
光地で、地元ホテルのオーナーはPRに務めた、銅像を除幕した林さんら「松木氏は歴代社長
中でも台湾発展の貢献が大きい。台湾と日本の密接な感情がより強まる」と復活を祝った。

(参考)
北投埔林炳炎(松木幹一郎台湾電力社長重塑胸像除幕式)
http://pylin.kaishao.idv.tw/?p=2429