【台湾紀行】台湾の国鳥

【台湾紀行】台湾の国鳥
【台湾紀行】台湾の国鳥

令和2年9月14日(台湾の声配信)
西 豊穣

<プロローグ>
現在流通している新台湾千元札の裏側には、玉山北峰(日本時代「北山」、標高3,845メートル)(註1)から望んだ玉山主峰(日本時代「新高山」、同3,952メートル)をバックに一番(つがい)のキジ科の鳥が描き込まれている。ミカドキジ(帝雉)、台湾特有種である。明治39年(1906年)、イギリスの鳥類学者、ウォルター・グッドフェロー(Walter
Goodfellow)に依り「発見」された。日本、台湾のみならず、英名もそのままMikado
pheasant、学名もSyrmaticus
mikado(Syrmaticusはヤマドリ属)である。実際は、グッドフェローが阿里山にて雇ったツォウ(鄒)族のポーターの頭飾りの中に、二枚の尾羽を見出し、本国に持ち帰り個体無しで新種として認定されたのは鳥類アカデミーの中では良く知られたエピソードだ(註2)。滑々した黒に近い濃紺の羽に覆われ、赤と白のアクセントの入った雄の優美で豪華な姿態は一度見たら忘れられない。台湾を代表する山岳と鳥類を通貨紙幣の絵柄にしたわけで、台湾政府自体が過去国鳥を制定したことはないので、ミカドキジは非公式の国鳥と見做されてきた。台湾の最高峰をバックに据えたのも、ミカドキジが海抜2,000~3,800メートルの高山を生息区域としていることを暗示している。

<台湾の国鳥>
この千元紙幣の発行が開始されたのは2005年7月20日、その後、2007年初旬から台湾永続生態協会と台湾国際観鳥協会の民間団体が主催、これに数名の立法委員(国会議員に相当)が協力する形で四箇月に渡る「国鳥」公募が実施された。5月1日に台湾特有種上位四種(註3)の決戦投票が行われ、トップは、台湾藍鵲(中国語名および英文名を直訳するとタイワンアオカササギ)。ミカドキジは次点だった。当時のニュースに依ると、投票総数約110万票、台湾藍鵲=52万票、ミカドキジ=27万票という結果だった。前者は生息区域も海抜300~1,200メートル、個体数が圧倒的に異なるので、投票結果は結局露出度の相異、実際見たことがあるかどうかが大きく影響しているのではというのが筆者の想像である。尚、タイワンアオカササギの正式和名は「ヤマムスメ」、文字通り「山娘」。日本時代、台湾人がそう愛称していたのでそのまま和名になったそうだ。台湾語では「長尾山娘」である。群青を基調とした華麗な外観の故か、或いは攻撃的な性格(註4)故か、筆者は判らないが、いずれにしても、爾来ヤマムスメが一応台湾の国鳥扱いになっているようだが、依然非公式のままだ。

ミカドキジも狩猟対象鳥類(所謂「gamebird」)だったが、乱獲と生息環境の変化で個体数が減り保護鳥に指定されている。国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストではNT
(Near
Threatened、準絶滅危惧)扱いなので、高山に入り込めばまだ良く見掛けるが、流石に筆者のコンパクトカメラには捕まらない。筆者はバードウォッチャーでも無いので、高級カメラと超望遠レンズの持ち合わせもないし、又、そういう機材を担ぎ山に登る体力も無くなった。それでもこれまで二回だけ番(つがい)のミカドキジを写真に収める幸運に恵まれた。

<一回目:望郷山林場>
最初は2018年6月、台湾百岳の一座、郡大山(標高3,265メートル)に二回目の登攀を試みた時だ。郡大山は南投県信義郷に属し、南側は玉山連峰、西側は阿里山山脈、東側は中央山脈最高部に対峙する。登山口から頂上までの距離は約4キロ、落差も400メートル程度、往復6~7時間前後を見込んでおけば良いので、所謂一日で登れる台湾百岳、百岳入門コースである。最初に登攀した時は、初日出を目指し未明に出発、真っ暗闇の中、雪と氷と強風に晒されながらの強行軍となったが、夜が明け真向かいに起立する冠雪した玉山連峰の荘厳な山並みは圧巻だった。台湾でも樹氷が形成されることを初めて体験した時でもあった。

郡大山の登山口までは、台21線(旧省道21号線)から分岐する台湾有数のスーパー林道の一つである郡大林道を辿る。嘗ては総延長が83キロ、今は33.5キロ地点までは車の進入が可能、その後は断続的に崩壊、歩行のみに限られる。郡大林道の開鑿は、昭和8年(1933年)、台湾総督府が民間の株式会社桜井組にヒノキの伐採を認可したのが始まりで、望郷山林場(註5)と通称される。今でも同林道23キロ付近にある林務局望郷工作站(管理署)脇に、当時建立した完全な祠が鎮座(望郷神社、昭和18年鎮座)している。望郷とは無論日本人が名付けたものだが、山名、ブヌン族集落名としても残っている。

郡大山登山口は32キロ地点、海抜2,800メートルを超えている。初回登攀時は筆者自身で運転し入山したのだが、今回はブヌン族男性の自称「村長候補」に運転して貰いながら、当時は無謀な事をしたものだと我ながら感心すること頻り。登山家に「郡大賓館」として重宝されていた工寮(作業兼休憩小屋)は十余年前はまだ小屋として機能していたが、今は身包(ぐる)み剥がされた無残な体(てい)を晒していた。夕方近く登山口近くの林道脇に露営の設営を終えると、実質的に林道終点となっている部分を確認しに出掛けた。この地点以降は、専らブヌン族の狩猟道、中央山脈南三段(中央山脈を南北に分け、その南段の最も北側の山域)の山々を目指す登山家に利用されている。鹿野忠雄の『山と雲と蕃人と』の世界への入口でもある。林道を暫く辿った松林で、ミカドキジの番に出会った。番で見たのは過去の記憶に無い。

ミカドキジは美しい―キジの帝王に相応しいので、この古い日本語が学名に入ったのだと筆者は合点し、又、そういう説明を台湾でもよく見聞きする。だが、待てよ?日本人が畏れ多くも桃太郎の家来に対しミカドなどと冠するだろうか?ウィリアム・ギルバート脚本、アーサー・サリヴァン作曲によるオペレッタ『ミカド』がロンドンで初演されたのは明治18年(1885年)、その後イギリスで爆発的な日本趣味、所謂「ジャポニズム」が勃興、ミカドは日本の代名詞となる。つまり、ミカドキジのミカドは当時日本の統治下にあった台湾への逆輸入ではないだろうか?というのが筆者の見立てである。
因みに、蛇足とは思うが、日本の国鳥はキジ、昭和22年(1947年)、日本鳥学会が選定した。

<二回目:八仙山林場>
二回目に撮影に成功したのは、2019年の春節休暇時、旧台湾小百岳の一座である八仙山(標高2,366メートル)登頂を目指すべく、台中市和平区の八仙山国家森林遊楽区に入った時だ。同遊楽区の北隣は台湾では著名な谷関温泉街、日本時代の明治温泉である。同遊楽区を含む広大な山域は、日本時代に開発され国民政府に引き継がれた、台湾紅檜(ベニヒ)伐採目的の、三大官営林場(阿里山、太平山、八仙山)(註6)の一つ。これら三箇所とも今は林務局が運営する台湾林業史テーマパークとして観光客を集めている。林業史という観点からは同遊楽区外でも見所がある。

台中市街地を抜け同市東勢区からスタート、大甲渓沿いに北上、最後は花蓮県タロコ峡谷に抜ける台8線(旧省道8号線)が同市和平区に入ると、同車道の両側はタイヤル族の集落が点在する。八仙山遊楽区が近くなると大甲渓左岸にその名も麗しい松鶴部落がある。元々はトフラン社、日本時代にクルス社に改名、久良栖社の漢字が充てられた集落である。ここには、八仙山森林鉄道(日本時代は八仙山林用軌道)の軌道跡、駅舎、官舎・工員宿舎が残っている。駅舎(久良栖駅)はそのまま民家であり、後者は檜木板屋(現地に「林場巷檜木板屋」の案内板有り)と呼ばれる集合住宅(長屋群)であり、こちらも普通の民家で有り続けている。八仙山林場の開闢は大正5年(1916年)。ヒノキの威力を見せ付けられる思いがした。

八仙山登山も観光活動の一環と見做されるかもしれないが、登山口の海抜凡そ1,000メートル、頂上との落差が1,400メートル、片道6キロ程、登り一方で一般のハイカーには厳しい。この為、大衆登山振興を目指す台湾小百岳のリストから外されてしまった。前記で「旧」を付けた理由である。健脚向きには往復8~9時間とされているが、筆者は出発も帰着も闇の中、14時間を費やす仕儀と相成った。

登山口から然程(さほど)離れていない場所に、旧神社跡(八仙山社:大正12年鎮座)を襲い設営された東屋(あずまや)がある。登山の前日、そろそろ薄暗くなり始めた時間に附近を散策していたら、ここでも番に遭遇、今回は間近での撮影に成功した。その理由は単純でこの番、何故か人を恐れないのだ。春先から転がり込んで来たこの幸運に興奮し、直ぐに数人の知人に自慢すべく、ミカドキジとして写真をスマホで配信した。

<2019年度彰化銀行カレンダー>(註7)
その後程無くして、いつもの通りトレーニングがてらに高雄市旗山区にある旗尾山に登った。これも台湾小百岳の一座だ。旗山市街地の東側に位置する台湾製糖旗山工場跡地(註8)附近から隆起し旗尾山(標高315メートル)を最南のピークとして北上する山並みは、玉山山脈の最南端を形成している。諸所岩盤が露出した峩々(がが)たる山並みは、旗尾山頂上から約10キロ離れた月光山(標高650メートル)を最高所としており、この間は台湾人ハイカーの間で「旗月縦走」と通称される人気登山コースだ。各々の登山口同士の距離は15キロ近くに及び、この間を歩き通すのは約9時間が標準とされている。最南の旗尾山は標高こそ低いが、三箇所の登山口があり、その内の一つは頂上まで941段の階段が付いており、たっぷり汗を掻き、二日酔いを覚ますのには絶好の運動となる。下山後はお隣の美濃区の市街地に出て客家料理の定番、板条(米粉ベースの麺)を食す、これが筆者のトレーニングの中身だ。

頂上にはコンクリート製二階建ての堂々たる東屋が立っているが、日本時代、「旗尾山祠」(昭和14年鎮座)があった場所で、故意か自然か碑正面刻字がすっかり剥落した建立記念碑が残っている。その東屋の壁に掛けられていた当時(2019年)の彰化銀行のカレンダーを捲っていたら、あっ!と驚いた―筆者が八仙山で撮影したミカドキジと信じて疑わなかった優美で豪華なキジは、実際は台湾での正式名称「藍腹鷴」(「鷴」の日本語読みは「カン」)、ミカドキジとは別種であるが、こちらも台湾固有種保護鳥、IUCNのレッドリストも同じNTランクだ。但し、世界にその存在を知らされたのはミカドキジに比べてかなり早く、文久2年(1862年)、同じくイギリスの鳥類学者、ロバート・スウィンホー(Robert
Swinhoe)に依る。学名は従って、Lophura
swinhoii(Lophuraはコシアカキジ属)、この為英語での通称は「スウィンホーのキジ」(Swinhoe’s
pheasant)である。生息区域は海抜2,300メートル以下とされる。和名は「サンケイ」(山鶏)、台湾の知人に依ると、「鷴」とは正に山の鶏の意味だそうだ。

そこで途端に心配になったのは、筆者がこれまでミカドキジと見做し目撃してきた個体、上述の郡大山登山口近くで撮影した番も含め、実はスウィンホーのキジではなかったのか?ということだった。それで慌てて両種のキジの漢語名と「差別」(違い)という単語を並べ、台湾ネット上で検索を掛けてみたら、夥しい関連サイトが飛び出して来た。これには驚いたと同時に安心した。台湾人でも容易に間違ってしまうという意味で。両種を見分ける最も簡便な方法は脚の色である。ミカドキジは黒、スウィンホーのキジは赤である。それで、郡大山登山口近くで撮影した写真を再確認、黒色の脚に胸をなでおろした次第である(註9)。その他、個体はミカドキジの方がスウィンホーのキジよりやや小振り、後者が頭部、背中、尾に目立つ白色羽があることぐらいが素人の判別基準になるだろうか。両種ともその羽毛と姿態に台湾人が魅せられるのは理解出来るが、ネットを渉猟する限りは加熱気味な印象を受けるのには理由がある。両種、青、白、赤色を纏っているという共通点があることだ。即ち、現在の「国旗」、青天白日満地紅旗を連想させるからだ。

<エピローグ>
本投稿の原稿を前項まで書き終え閉じようとしていた所、『ミカドキジの命名、採集、および保全繁殖の歴史に関する基礎研究』(伊東剛史、専修大学人文科学研究所、2019年)(註10)という論文に行き当たった。何故、台湾固有種であるキジに「ミカド」が冠せられたのかという疑問が出発点の論文である。伊東氏の結論は、その命名の過程を明確に示す文献は未だ見付からないというもので、筆者自身の前述の見立ても伊東氏の推察の一つとして書かれている。ミカドキジの「発見」を切り口に、内外の膨大な文献を渉猟した日本時代の台湾近代史にもなっているので、興味のある方はご一読いただきたい。筆者の今回の投稿は同じミカドキジを題材にしながらも、スウィンホーのキジとの不覚の混同顛末話しである。山登りの話に加え、登山口の標高とか、目撃した時間帯まで盛り込み煩雑になってしまったが、二種のキジの凡その生態環境の相異を理解して貰いたかったからだ。

最後に―無論、各人の好みは異なろうが、ミカドキジ、スウィンホーのキジ、そしてヤマムスメ、非公式とは言いながら、台湾を代表する鳥類、即ち国鳥であり国宝鳥とすら呼ばれる。今後も永きに渡りそうあって欲しいと願うものである。(終り)

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(註1)玉山北峰頂上には測候所がある。昭和18年(1943年)、台湾総督府新高山気象台を設営、現在は交通部中央気象局玉山気象站として引き継がれている。

(註2)実際最初にミカドキジの完全個体を確保したのは、動物学学者菊池米太郎だったと謂われている。同じく明治39年、阿里山中にて捕獲した。

(註3)台湾藍鵲(ヤマムスメ)、帝雉(ミカドキジ)、藍腹鷴(サンケイ)、黄山雀(タイワンシジュウカラ)

(註4)ジョアキーノ・A・ロッシーニ作曲の著名なオペラの一つ『泥棒カササギ』(文化14年、1817年、ミラノ・スカラ座で初演)からの連想では無く、カササギは本来「モビング」(擬攻・擬攻撃」が旺盛。モビングとは「小鳥が、捕食者であるフクロウやタカなどに対して集団で行う行動。やかましく鳴きたて、突撃するように飛び回る。」(小学館『デジタル大辞泉』より)

(註5)「林場」という呼称は、戦後、国民政府が使い出したようだ。日本時代は「事業区」だったはずだが、今回の投稿では林場で統一した。

(註6)官営として台湾総督府下での組織形態に変遷はあるが、最終的には、昭和18年(1943年)に殖産局直轄になり、伐採事業は半官半民の台湾拓殖株式会社に委託された。先日台湾の或るテレビ番組を看ていたら、然るお笑いタレント曰く、「日本の台湾領有は五十年、幸運な事に、まだヒノキの巨木が残っている、もし百年領有していたら、どうなっていたやら?」。これは多くの台湾人がそう思っている節がある―日本人が台湾のヒノキを根こそぎ切り倒し日本に持って帰った!実際、上記の遊楽区を始めとるネット上の紹介、現地のパンフレット、遊楽区内の案内板の中には、同様のコメントを暗喩している部分を見出すのは容易である。だが、国民政府は日本時代を遥かに超えるペースでヒノキを始めとする天然樹木を、伐採面積を急拡大しながら切り倒していったと謂うのが事実ではなかろうか?

五十年と言うが、実際は当時の三大林場の事業期間は1912~1945年、凡そ30年間、これに対し国民政府の場合、1991年に天然樹木伐採禁止に踏み切るまでの半世紀弱。しかも、日本時代は作業員が鋸を手で引いていたのだ。戦後は無論電動である。大東亜戦争終結前後の台湾林業に関する統計数字は諸々存在するようである。又、国民政府とアカデミズムでの統計数字も異なるそうだ。

ここに中文版ウィキペディア「三大林場」(日本語版無し)から拾って来た数字を、あくまで参考までに掲載する:日本時代、三大林場合計の伐採総面積は1万8千ヘクタール、原木換算の伐採総量は660万立方メートル、これに対し国民政府に依る伐採総面積は34万4千ヘクタール、伐採総量は4千446万立方メートル、伐採総量だけでも日本時代の7倍もの樹木を戦後切り倒して来たということになる。日本時代は官営の三大林場以外に民営に依る林場も開発されたが、上記の数字にはこれら民営林場の統計は含まれていないと謂い乍ら、これら民営林場の事業開始は日本統治後期であることを考慮すると、統計上然程重要とは思われないくらい、上記の数字を比較する限りは、戦前、戦後の伐採量の差は圧倒的に思える。他方、大東亜戦争の戦局悪化に伴い、軍需資材を確保する為に軍部は保安林伐採を敢行、その伐採面積は20万ヘクタールに及んだという統計も並んでいた。

(註7)正式名称は「彰化商業銀行」、本社は台中市、台湾で有数の商業銀行の一つ。戦後の国民政府接収後の初代董事長(会長に相当)は以前の投稿で紹介した林献堂、戦前から同行の大株主だった。「彰銀の父」とも呼ばれる。

(註8)正式名称は「台湾製糖公司旗山製糖廠」、前身は、創業後改編があるが「高砂製糖株式会社旗尾製糖所」、明治42年(1909年)創業。

(註9)投稿記事中の二種の台湾キジの誤認顛末は、先に筆者自身の『台湾百岳』ブログ、「郡大山-9」と「郡大山-10」の投稿記事中で写真添付で紹介してあるので、参考にして欲しい:
http://taiwan-mountain.seesaa.net/category/21293938-1.html

(註10)当該論文のURLは以下の通り:
https://core.ac.uk/display/222785204?recSetID=


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