西 豊穣
令和2年1月14日〔1月20日掲載〕
<始めに>
平成17年1月から同25年1月までの間、【台湾紀行】として『台湾の声』に古道の紹介を主とした投稿を続けてきたが、その後個人的な事情で大いにサボってしまった。ただし、その間、山歩き、古道歩きは継続してきたので、投稿記事のネタに尽きることはない。それで、投稿の再開を希望した次第である。今後は多少以前とは毛色の異なる記事内容を提供したいと思う。引き続きご一読いただければ幸いである。
日本の台湾統治五十年の後、既に七十五年が経とうとしている。日本時代建造のものが現存しているとすれば、それらは百年古蹟であり、これから陸続と百年古蹟の仲間入りをしていく。これらの建造物は、台湾の文化遺産として修復・保存活動が益々盛んになる今日この頃なのだが、数量として最も多く、従って台湾のどこにいても見られ、触れられる日本時代の古蹟とは何であろうか?
以下、測量の話になる。台湾華語だと「測絵」である。近代測量技術を台湾に持ち込んだのは日本人だが、現在の測量用語には少なからず差異がある。たとえば、測量基準点である三角点、水準点は台湾では基点と総称しているし、これら基準点の標石は台湾では基石と呼んでいる。また、標石の埋設は、台湾ではそのまま埋設が一般的、日本の測量用語では埋定が正式だ。本投稿の中ではできるかぎり交通国土省国土地理院の公式サイト中で使われている用語に倣うことにした。
<台湾登山事情とスマホ>
日本も同じだと聴くが、昨今台湾も登山ブームで、特に年配の女性の進出が著しい。以前の投稿でも紹介した記憶があるが、多くの台湾人ハイカーは頂上に至るとそこにある花崗岩製角柱である三角点標石を手で撫ぜる、タッチである。これら台湾の山々の頂上にあり、今でも現役の三角点のほとんどは日本時代、三角測量による地形図作成を目的に埋定されたものである。埋定時期を遡ると既に百年を超えているのがほとんどだ。台湾測量史上、立派な文化遺産である。以上の認識が多くの台湾人に共有されていることは、台湾にも多くの三角点ハンターがおり、それらの人々の踏査記録がネット上に溢れていることで覗い知ることができる。ただ、一般のハイカーは、その三角点が何たるかにお構いなしに標石を前にしてスマホで記念撮影することに忙しい。人気のある山だと標高にかかわらず、撮影順番待ちで長蛇の列ができる。さながらデパートのセールコーナーの活況を呈している。
実は、この測量基準点とスマホ、関係がある。専用GPS機器を持たずとも、今のスマホなら瞬時にして現地の経緯度、標高を弾き出す。スマホにGPSモジュールが内蔵されているからだが、百年以上前、この経緯度と標高を計測・算出するために台湾でも使われた測量標準が平面上の位置、即ち経度・緯度を測定するための三角点であり、垂直上の位置、即ち標高を測定するための水準点である。
ところで、現代のスマホの重量は二百グラム前後だ。では三角点標石、水準点標石はいったい何キロあったのだろうか?台湾全土の測量を完成させたのは、現在の国土地理院の前身である大日本帝国陸軍参謀本部陸地測量部である。陸地測量部では測量基準点標石のサイズ、重量を厳格に定めていた。三角点標石の場合、測量基準点として地表から出る部分を含む約20センチ四方、長さ約80センチの柱石と、柱石を地下で支える二重構造になった磐石とで構成されるが、柱石、磐石の重量は各々約90キロ、45キロ。総重量135キロもある。柱石も磐石も花崗岩を削り出したものだ。水準点標石の場合、柱石のみ、磐石なしで埋定される。
もう一つ重量の話をすると、今現在、台湾で登山の際ポーターを雇う場合、背負う顧客の荷物の最大重量は30キロを超えないことというガイドラインがある。これはポーターの身体保護のためだ。また、ポーター料金は一日4,000台湾ドル(現行レートで約15,000円弱)が相場である。標石を実際運び上げたのは原住民だが、三千メートル峰を250座以上も擁する台湾の山々へどのような手段で運び上げたのか?筆者自身はいまだに想像が付かないが、一日の労賃は9毛(毛は円の一万分の一)だったという記事を見たことがある。今ならヘリコプターだ。余談だが、台湾のポーターの場合、ブヌン族が多く、また、重宝がられる。「担ぎ」は彼らの伝統文化だからと聞いたことがある。当時の測量に従事した先人の艱難辛苦を想像すると、登頂した際いかに疲れているとはいえ、三角点に足を掛たり、腰を下ろし休んでいるハイカーには腹が立つのである。それで、筆者の場合、三角点標石を撫でるかわりに、「先人様、ありがとうございます。お疲れ様でした」と呟き手を合わせることにしている。これら測量基準点標石を埋定した時点で測量が終わるわけではない。それから標石上に櫓を組み測量が開始されるのである。
ここで台湾測量史を概観しておく。日本の国土地理院に該当するのが、台湾では内政部国土測絵中心である。前者のサイトでは台湾測量史に関するまとまった情報を見付けられず、後者のサイトには専門のコーナーが設けてあるが簡述してあるだけなので、以下草莽の台湾研究家のサイト情報に頼った。
<台湾測量史-三角点>
第三代台湾総督児玉源太郎治下、民政長官後藤新平の指揮で、臨時土地調査局を設立、ドイツの測量方法に拠って、地籍(土地戸籍)調査目的で三角測量を開始したのが、明治
31 年(1898 年)。明治38年
(1905年)に測量を完了させている。当時埋定された三角点標石は約3,300基(通称「地籍三角点」)、三角原点は現在の台中市台中公園砲台山(三等三角点標石が現存)に設置された。地籍測量は平野部に限定され、まだ山間部(原住民居住地、所謂「蕃地」)の大部分がカバーされていなかった。陸地測量部は、明治39年(1906年)、更に精密な測量と台湾全土をカバーすべく、三角測量を開始、大正10年(1921年)に一等三角測量を完了、昭和14年(1939年)に三等三角測量が完了した。三角測量は三角形網を形成しながら測量域を拡大していくが、その三角形の一辺の距離により測量等級が定められており、一等三角点がカバーする距離は40~45キロ、以下等級が下るごとにカバーする距離が短くなる。陸地測量部は測量を開始するにあたり、測量原点、すなわち「台湾経緯度原点」を設置するべく、現在の南投県埔里市街地内の虎子山山頂上に一等三角点を埋定(ただし標石は消失。戦後或る映画会社のロケ隊が撮影の邪魔になるとのことで撤去)、東京天文台技師橋本昌矣が経緯度を測定、爾来1999年、921大震災の後に新国家座標システムが採用されるまでの、実に92年間にわたり台湾の経緯度原点だった。今でも同地は「台湾地理中心」と呼ばれる。
これも余談だが、三角点の等級を山の等級と勘違いして一等三角点が頂上にある山を目指す台湾人ハイカーは多い。筆者の手元にある市販地図帳も確かに一等三角点埋定地点の点名(三角点埋定の報告書である「点の記」の地点名)が標高とともに赤字で表記してあるので、勘違いも頷ける。「点の記」は新田次郎著『剱岳-点の記』の映画化で人口に膾炙したと思う。嘗て測量会社を営んでいた筆者の同級生がいるが、彼曰く、同書は測量士の卵たちに是非とも読んでほしい一冊だそうだ。重い標石を人の手で担ぐ必要のなくなった現在こそ、測量魂を汲んで欲しいからだそうだ。なお、台湾の日本時代の点の記は国土地理院に保存されており、一点200円で謄本を入手できる。
当時陸地測量部が埋定した三角点標石の合計は1,200基弱、今でも現役のこれらが通称「陸測三角点」である。日本本土で陸地測量部が一等三角測量を完成させるのが、大正4年(1915年)なので、台湾での測量速度は遜色がない。台湾における陸地測量部による測量開始は、第五代台湾総督佐久間左馬太により明治43年(1910年)に発令された「五箇年計画理蕃事業」のバックボーンとなるものであり、山間部の原住民管制を主眼としていた。同時期、土地調査局、陸地測量部以外に、さまざまな測量目的で、台湾総督府内務局、同専売局、同殖産局、同交通局、海軍が主管する測量のために、多種多様の三角点が埋定されたが、今現在、殖産局山林課埋定の通称森林三角点以外は、運が良ければ行き当たるという具合なのが筆者の体験だ。国土測絵中心のサイト中にはこれら各種三角点標石の中から七種を選び写真付きの解説が加えられている。
いずれにしても、地籍三角点標石と陸測三角点標石だけでも4,500基にもおよび、これらの全てが既に百年を経、あるいは直に百年古蹟の仲間入りをしようとしている。台湾の日本時代古蹟として最大多数は実は三角点標石であることに間違いなさそうだ。
<台湾測量史-水準点>
さて、台湾で持て囃されるのは三角点である。これに対しもう一つの測量基準点である水準点の方は事情が異なる。台湾サイト内の情報量も圧倒的な差がある。筆者自身、日本時代埋定の水準点標石は最近まで全く目にする機会がなかった。三角点はその測量方法柄、見晴らしの効く山の頂上や平野部の高台に埋定され、特に山間部に埋定された標石は開発の波に揉まれにくいのに加え、上述したように大量の標石が埋定されたので、良く残存している。これに対し水準点標石の方は、これもその測量方法柄、主要幹線道路沿いに埋定されていったので、その後の道路拡張等の開発の波に没し損壊、消失していった事情がある。
三角測量と同様、土地調査局の水準測量は陸地測量部に比べ早く、明治35年(1902年)には台湾海峡側平野部の水準測量を完了させていた。他方、陸地測量部は、大正3年(1914年)、水準測量を開始。昭和11年(1936年)、台湾全島の測量を完成させた。いずれも、水準原点は基隆港の平均海水面である。当時埋定された調査局の地籍水準点標石は約450基、陸測水準点標石は600基弱、これらのうち、現存が確認されているのは、前者が10基、後者は50基程度だそうだ。驚くべきは、これら現存の水準点標石の全てを現場確認する台湾人がいることだ。最近になり、筆者自身意外な場所で水準点標石二基に遭遇する機会に恵まれた。
筆者六十一歳の誕生日を目前に控えた去る十月、日本時代「三高」と呼ばれた山、新高山(現在の玉山主峰)、次高山(同雪山主峰)、能高山主峰の内、筆者未踏の能高山へ登る機会があった時である。能高山への登山は、『台湾の声』で紹介済みの台湾有数の古道の一つ、能高越嶺古道の西段を利用する。登山基地となるのが、台湾では玉山の登山基地「排雲山荘」に続き、食事を提供する二番目の山小屋である、「天池山荘」である。林務局と台湾電力が共同管理している天池山荘は、2015年新装、日本家屋を模した外観になったのは、日本時代、当地に能高駐在所、ならびに能高神社があったからだ。今でも山荘横に当時の弾薬庫が残る。天池山荘自体は過去何度も訪れているが、今回初めて山荘前の広場脇に花崗岩の石柱が覗いているのに気付いた。見るからに日本時代に設置された石柱には「水準點」と刻まれていた。後で判ったのだが、点名「能高」の陸測一等水準点である。山荘の標高は2,900メートル弱もある。実は、能高越嶺古道西段にはもう一基陸測水準点標石が現存しているのを、天池山荘からの下山時に確認した。点名は「深堀山西南」、標高約2,800メートル。「深堀」とは、明治31年(1898年)、「中部線蕃地探検隊」を組織して入山し、その後、セデック族に殺害された深堀安一郎大尉以下測量員、林学技師等14名に因む。現在、深堀山と深堀瀧として地名に残る。国家歩道に指定され林務局による案内板が豊富な能高越嶺古道脇に立っているのだが、ここには残念ながら何の表示もない。
実は陸地測量部は、今は国家歩道に指定されている能高越嶺道路を始めとする中央山脈越えの警備道路の測量も実施している。当時はこれらの道路が立派な幹線道路だった証拠である。能高越嶺道路全段の測量が完成したのは、大正13年(1924年)辺りだと思われる。つまり、筆者が遭遇した二基も直に百年古蹟の仲間入りである。もう一つ余談になるが、現在、台湾中央山脈を横断し東西海岸都市を結ぶ国道は5路線、この内、日本時代の合歓越嶺道路を襲って建設された中部横貫公路(通称「中横」)の最高点は武嶺、台湾の冠雪体験スポットとして著名だ。標高3,275メートル、日本でこの標高を有するのは富士山のみ。日本時代、佐久間左馬太とタロコ戦役に因み「佐久間峠」、「佐久間越え」と呼ばれた地点である。
<終りに>
三角点柱石と水準点柱石の外観上の大きな違いは、前者が正角柱で各辺の面取りが小さく、柱石の頭の平面の中心に十字が刻まれているが、後者の面取りは大きく、少し離れた所から見ると、円筒形に見える。加えて水準点柱石の頭は平面ではなく、中心に半円球の突起があることである。この半円球の突起は、測量用の標尺(ものさし)を立てる機能的なものだが、大きな面取りと合わせ、水準点柱石は実に優美なデザインになっている。月並みな表現だが、三角点柱石は男性的、水準点柱石は女性的である。
大東亜戦争終了後、国民党政府も台湾全土の測量を数次にわたり実施したので、特に三角点の種類は豊富である。日本人により埋定された測量基準点標石と戦後のそれらの差は一見で区別できる。これは日本時代に埋定されたものは花崗岩製であることも手伝い、精緻かつ品格があるからである。特に陸地測量部の標石は実は百年を経ていることを忘れさせる。現代の台湾人ハイカーもこの差は同様に感得している。
多少専門的な話になってしまったが、測量基準点標石も、先年亡くなられた台湾古道研究の泰斗、楊南郡の言葉「山に入れば台湾が見えてくる」の一例であるかと思う。台湾人ハイカーに人気の高山の三角点も良いが、基石ハンターしか入り込まぬような、登山道も不明瞭な低山の頂上に埋定された、台湾測量早期の地籍三角点の前に佇む時、筆者が感じるのは、明治日本人の意気である。(終り)
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