【台湾紀行】阿罩霧圳と霧峰林家

【台湾紀行】阿罩霧圳と霧峰林家
令和2年3月22日
西 豊穣

<始めに>
台湾に於ける日本時代の灌漑水利事業の恩恵は、現在は主に八田與一の嘉南大圳(嘉義県・台南市)、鳥居信平の二峰圳(屏東県來義郷)、磯田謙雄の白冷圳(台中市和平区)を通じて語られる。これらの大規模灌漑システムは今でも滔々と台湾の大地に清冽な水を配し続けている。以上のような規模を誇らずとも、台湾の田園地帯を子細に眺めると、実は多くの日本時代構築の灌漑施設が現役、退役に拘らず、良く残っているのに気付く。当時の日本人の設計・施工の質の高さを覗わせる。そんな中から、筆者がこれまで踏査した灌漑施設の中で、一見の価値ありと考える小さな水門を紹介したい。

<「阿罩霧」>
「阿罩霧(アタブ)」は現在の台中市霧峰区の古名、平埔族語「アタアヴ(attabu)」の漢音訳である。筆者がこの地を訪れたのは、同区市街地東部、朝陽科技大学の裏山になる標高249メートルの阿罩霧山に登る為であった。同山は陸測二等三角点を擁する台湾小百岳の一座である。筆者も還暦を迎え、「中華民国山岳協会」選定の一座を除き全てが三千メートル峰である台湾百岳から、行政院体育委員会が都市近郊の低・中級山から選定した、台湾小百岳の方へ目標が移りつつある。

件の大学の裏山は農道を利用した遊歩道が整備されており、地元の人々の格好の散歩道となっているが、彼らが目指す場所は、阿罩霧山頂上には非ず、同座の真向かいの低い峰に設けられた展望台である。この展望台から阿罩霧山越しの台中市の眺望は逸品である。不思議なことに、農道兼遊歩道の何処にも阿罩霧山頂上への指導標は無く、三角点まで辿り着くのはちょっとしたパズルだった。

日本人が竣工させた灌漑水路を紹介するのに、山の話になってしまったが、これには二つの理由がある。一つは筆者の「阿罩霧」、即ち霧峰との出会いは阿罩霧山から始まったからだ。阿罩霧=霧峰であることに気付いたのは、山を下り霧峰市街地に辿り着いた後、自動車道脇の下水道マンホール上に「阿罩霧」の文字を見付けたからだ。これが阿罩霧山に続く阿罩霧との二度目の遭遇になった。暫くはこの下水道が阿罩霧圳の一部と勘違いしていた。もう一つの理由は、これまでの筆者の【台湾紀行】に頻出する玉山を始めとする台湾百岳ではなく、大衆ハイキングコースとしての台湾小百岳を出来るだけ紹介したいと云う希望があるからだ。

<霧峰林家と林献堂>
筆者の手元にある市販地図帳で、霧峰市街地を眺めると随分大都会に見えるが、実際は省道3号線(国道と同等、現在は台湾の台を冠し「台3線」等呼称される)の東側に狭い車道を挟み込んだ小さな町である。そんな小さな町の行政中心たる霧峰区区公所(区役所)横を走る民生路沿いに、霧峰林家宅園と通称される閩南式大邸宅群があり、その部分は民生路が殊更狭くなっている。霧峰区を代表する国定古蹟であり観光スポットである。到る所で改装と思しき作業現場を晒していたが、1999年の921大震災の倒壊から修復が終わっていないことを後で知った。

霧峰林家は、日本時代、台湾五大家族(日本語風には富豪か?霧峰林家の場合、日本統治以前は私兵も擁していたので、豪族が相応しい?)の一つに数えられていた。他は、基隆顔家、板橋林家、鹿港辜家、高雄陳家である。霧峰林家宅園は、林家宅第(たくだい)と呼ばれる邸宅群と莱園(らいえん:通称林家花園)と呼ばれる庭園から構成されている。林家宅第は下厝系と頂厝系の二家系統に分かれ、前者のみ霧峰林家宮保第園区として入場料250元で一般に公開されている。宮保第とは台湾で唯一の閩南式清朝官邸の称号であり、そのまま霧峰林家下厝系邸宅を指す。後者の頂厝系邸宅は、白壁で統一された和洋折衷の造りが美しい頤圃(いほ)を含む。塀越しの鑑賞でも当時の設計・施工者の業(わざ)が偲ばれる。林家の中で最も良く日本人に知られた、「台湾議会の父」、林献堂(頂厝系)が私塾を設立した莱園は明台高級中学校内にある。以上の案内は、台中方面の定番観光スポットとして日本語でも良く紹介されている。

筆者自身と阿罩霧との出会いは前述の通りだが、この投稿を起こすに当たり台湾ネット上で検索したら、先ず同名のタイトルの付いた映画に関する夥しい紹介が飛び出して来た。2013年と2015年の二回に渡り封切られた、制作=李崗、監督=許明淳に為る『阿罩霧風雲』である。同映画が封切られた時分は、筆者は中国で仕事をしていた関係で全く知見が無かったので、早速DVDを買い込み観てみた。前編「抉択」と後編「落子」の二部に別れ、上映時間は合計三時間半近く、極端に役者の台詞が抑えられた(それでも後編は日本語の台詞多し)ドキュメンタリー映画の体裁を取っている。前編は霧峰林家初代が、1746年(乾隆11年)、福建漳州から渡台、太平天国の乱、清仏戦争、日清戦争等を経て日本の台湾領有が確定する、第六代林献堂の青年時代迄を描く。後編は林献堂を中心に据え、日本統治時代、国民党の台湾支配、二二八事件、その後の白色テロ、最後は、1956年(昭和31年)、東京久我山で没する迄を活写する。尚、本投稿冒頭の「阿罩霧」のローマ字表記は、この映画の英語タイトルに倣った。

<烏渓治水工事竣功記念碑>
筆者の車の中には常時、遠足文化出版社『台湾地理百科』シリーズの「台湾的古圳道」が放ってあり、台湾の何処に移動しても、その近くに同書に掲載された古圳があれば、即座に調査が出来る様にしてある。「阿罩霧」は見慣れない地名であり、同書に掲載されている水門の写真と、その水門上に「昭和」の竣工日も無傷で残っているとのキャプション故、筆者の記憶に引っ掛かっていたのだ。それで、マンホールの蓋に同じ文字を見た時に、反応した。

阿罩霧圳を意識していたわけではない第一回目の霧峰市街地訪問では、下水道マンホールまでは行き着いたが、正真正銘の阿罩霧圳に謁〔まみ〕える機会無く、その後、霧峰市街地で恐らくは最大の交通量を有すると思われる、国道(高速道路)6号線(「水沙連高速公路」)舊正インターの高架下に、日本時代の水利事業関連碑が起立していることが判った。早速翌週、まずこの碑を目指した。二基の記念碑が、省道3号線西側北岸路の中央分離帯取突き上に、茄苳樹の大木に守られるように並んでいるのは印象的な光景である。反面、以前はベンチと思しきコンクリート建造物を設〔しつら〕え公園仕立てになっていたようだが、それら建造物は残骸となり散らばり、加えて草茫々の有様だった。

二基の記念碑の内一基は、「烏渓治水工事竣功記念碑」、四角錐の頭部を頂く日本時代の記念石碑様式に拠っている。記念碑正面「烏渓治水工事竣功記念碑」の表題下に「昭和六年十月起工/昭和十四年十月竣功/工費金六百六萬圓餘」のプレートが嵌め込まれ、背面には「昭和十四年關係地方民建立」のプレートが嵌め込まれているが、それらプレートの年号の部分は殆ど削り落されている。

烏渓は、台中市と彰化県の境界を形成し、流路延長は台湾で第六位、流域面積第四位の大河、最後は台湾海峡に流れ込む。ウィキペディア中文版「烏渓」の「治理」項(日本語版もあるがこの項脱落)に二基の碑に関する説明があり、それらの由来が簡述されており非常に判り易いので、訳出しておく(
[  ]内は筆者註 ):

1931年[昭和6年]、日本政府[台湾総督府]は烏渓九箇年治水計画を実施、606万円を投入、1939年[昭和14年]、烏渓本流と支流大里渓の堤防設営38キロ、護岸工事2キロを完成、完工後烏渓橋北岸に「烏渓治水工事竣功記念碑」を建立した。1959年、台湾中南部で甚大な被害を齎した八七水害が発生、水利局は「台湾省水利局機械工程隊」を編成、農復会[農業復興会か?]を通じアメリカの義援金にて工事機械・設備を購入、復旧工事を推進した。民間、工兵、工事隊以外に空軍も烏渓堤防の復旧工事に参加、「烏渓治水工事竣功記念碑」の横に、「空軍参加八七水災重建堤防工程竣工紀念・實惠及民」碑を建立した。

この二つの碑の外観を比べると、前回の【台湾紀行】投稿記事「測量基点」の中で述べた、日本時代と国民党政府に依る測量標準点標石と同じ違いが、並立しているだけに際立つ――即ち、烏渓治水工事竣功記念碑は精緻にして優雅な仕上がりになっている。

筆者のその後の調査で、烏渓治水工事竣功式典には、林献堂の第二子林猶龍が地方名士代表として出席していることが判った。林献堂自身は当時東京に居り怪我(骨折)を負っていたので出席出来なかったのが実情である。林献堂と烏渓治水工事との関り合いは、国史館台湾文献館(通称台湾文献館)刊行の『臺灣文獻』第五十八巻第一期「烏渓治水事業之研究-以灌園先生日記為中心」に詳細がある。「灌園」とは林献堂の号である。台湾文献館の前身は「台湾省通志館」(1948年設立)で、初代館長が林献堂である。

<阿罩霧圳第一水門>
では、烏渓治水工事と阿罩霧圳とはどういう関係にあるのか?と云うと、阿罩霧圳は烏渓から取水、阿罩霧地区、即ち霧峰地区の田畑を灌漑して来たのだが、その日本時代建設の第一水門が現存している。手元の市販地図で阿罩霧圳幹線と記載されている水路沿い、烏渓に最も近い辺りに何かあるはずだと当たりを付け、前述の二基の記念碑が立つ北岸路の、省道3号線を隔てて真向かいの象鼻路を入り込んで行くと、象鼻橋と云う小さな橋の右手に古い水門、左側に鉄筋コンクリート製大水門が並列している。省道を境に烏渓治水工事竣功記念碑と向き合う位置関係であり、その距離僅か二百メートル!

その古い水門を一目見て仰天した。これまで筆者が看て来た水門に刻まれた銘は、すべてコンクリートの平面に彫り込まれたものであるのに対し、阿罩霧圳第一水門の銘は、「阿罩霧圳」、「第一水門」、「昭和九年十月竣功」の三段抜きの銘が、正方形のタイルに一字一字彫り込まれ、それらを水門上に貼り合わせたように見せる意匠となっており、各文字に寸分の欠落も無い。年号が削り落されている烏渓治水工事竣功記念碑とは対照的である。竣功年月日から、烏渓治水工事と阿罩霧圳建設は平行して進められたことが判る。竣功後85年、その保存の完全さと古色蒼然たる美しさに脱帽する。高雄から二時間半のドライブに費やすだけの価値ありと興奮した。

<終りに>
以上、阿罩霧-霧峰林家と林献堂に登場願い、台湾の一地方に残る小さな水門に纏わる物語を記した。繰り返しになるが、同様な物語は台湾にはまだまだ幾らでも存在する。(終り)

編集部註:台湾に関わる「圳」は、日本語では「しゅう」と読む習わしである。


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