11月14日、関口長太郎顕彰会が柚原正敬氏を講師に慰霊・顕彰法要の集い

*事前申し込み不要・参加費無料!*第1部だけの参加、第2部からの参加でもOKです。

 あなたは日本のこころを持っていらっしゃいますか。日本の心(日本精神)を持った方はきっと日本や世界に貢献されるでしょう。そんなお一人に、西尾小学校初代校長関口長太郎(せきぐち・ちょうたろう)先生がいらっしゃいます。

 先生は台湾教育に命を捧げた六士(ろくし)先生のお一人で、そのお墓は今も台湾で大切に守られています。

 この郷土の偉人・関口長太郎先生の威徳を偲び、大切なこととして子孫に語り継ぐために、毎年この時期に慰霊祭を行っています。ぜひご参加いただき、一人でも多くの方に知っていただきたいと思います。

・日 時:令和3年11月14日(日)12;30〜16:00(受付12:00)

・第1部 慰霊・顕彰

 時 間:12:30〜13:00

 場 所:顕彰碑広場前     愛知県西尾市金城町229     (西尾小学校裏、西尾市資料館向かい)     *駐車場あります。

 内 容:祝詞奏上     玉串奉奠     お神酒     *派手な服装はご遠慮下さい。     *玉串料は任意です。

・第2部 慰霊法要・講演・語り

 時 間:14:00〜16:00

 場 所:盛厳寺     愛知県西尾市馬場町70 TEL:0563−57−5513     *駐車場あります。

 内 容:慰霊法要     講 演 会 柚原正敬氏「世界が注目する台湾と岸田政権下の日台関係」     語  り 田中ふみ枝氏「関口長太郎伝」

・出演者プロフィール

 柚原正敬(ゆはら・まさたか)氏 出版社「展転社」を創立。主に天皇、大東亜戦争、台湾に関する作品を担当編集。台湾研究フォーラムを設立(19 95年)。新しい歴史教科書をつくる会の会報「史」編集長などを歴任。日本李登輝友の会の設立とともに常務理事 ・事務局長に就任(2002年)現在に至る。日米台関係研究所理事、台湾歌壇同人。共著に『台湾と日本・交流秘話』 『李登輝訪日・日本国へのメッセージ』他多数。

 田中ふみ枝氏 愛知県西尾市出身の語り部。「語り」の活動30年。自ら脚本、演出を手掛けた作品は50作以上。海外も含め全国各 地で活動。近年、語り部を育てる活動にも尽力。語り独特の抑揚ある話し方とイマジネーションの世界に引き込ま れファンを魅了している。

・お問合せ:090-1728-6226(中川)

・主 催:関口長太郎顕彰会(齋藤・杉田)

                   ◇     ◇     ◇

◆芝山巌事件:

 明治29年(1896年)1月1日、恵済宮を借りて開いた芝山巌学堂の6人の台湾総督府民政局学務部員(楫取道明:37歳・ 山口県、関口長太郎:36歳・愛知県、桂金太郎:26歳・東京府、中島長吉:25歳・群馬県、井原順之助:23歳・山口 県、平井数馬:17歳・熊本県)が台湾総督府の拝賀式に向かう途次、土匪に襲われ惨殺された事件。

◆芝山巌事件後:

 明治29年(1986年)7月1日、伊藤博文揮毫の「学務官僚遭難之碑」建立。 明治29年(1896年)10月21日、遺族に御下賜金。 明治30年(1897年)1月2日、一周年祭。 明治31年(1898年)2月1日、例祭(以後、毎年同日に斎行)。 明治31年(1898年)9月30日、靖國神社に合祀。 明治38年(1905年)7月1日、10年祭に「台湾亡教育者招魂碑」建立(合祀者:明治38年23名、大正5年107名)。 昭和4年(1929年)12月、芝山巌神社竣工(同5年2月1日、307柱を祀る鎮座祭。同10年385柱、同17年529柱)。 平成7年(1995年)1月1日、「六氏先生之墓」再建。 平成12年(2000年)夏、台座を復元し横倒しだった「学務官僚遭難之碑」再建。

◆殉難の六士先生:

 楫取道明(かとり・みちあき)37歳 山口県 安政5年(1858年)5月27日、父楫取素彦、母寿子(吉田松陰の妹)の次男として山口県萩城下松本村(萩市)に生ま れる。幼名は粂次郎。久坂家の養子となり、藩校明倫館で学んだ後、司法省、内閣、農商務省、宮内省に勤務するも、 病を得て帰郷し農耕に従事。義父の久坂玄瑞が禁門の変で自刃後、楫取家に復す。18歳で結婚し4男3女をもうける。 願いにより明治28年5月に大本営付雇員を命ぜられ、台湾総督府随員となり訪台。6月18日、学務部員に任命。墓は萩 市の東光寺境内。

 関口長太郎(せきぐち・ちょうたろう)36歳 愛知県 安政6年(1859年)11月11日、旧西尾藩士の関口宇左衛門の末子として愛知県幡豆郡西尾町(西尾市)に生まれる。藩 黌修道館に学び、秋山恬堂に漢学を学ぶ。明治10年、愛知尋常師範学校を卒業。小学校勤務後、西尾錦城学校、西尾 尋常小学校の訓導として学校長を兼務。幼児教育の重要性に着眼して西尾幼稚園を設立。同27年、西尾尋常高等小学 校の校長に任命。妻を失い、娘の浪を知人に預けて訪台。没後、明治37年1月、西尾城址の一角に伊澤修二撰文の「関 口長太郎碑」が建立。

 桂金太郎(かつら・きんたろう)26歳 東京府 明治2年(1869年)8月、桂信行の長男として東京府南葛飾郡綾瀬村(足立区綾瀬)に生まれる。同15年に麹町番町小 学校を卒業後、東京尋常中学校、福岡県中学校、前橋幽谷義塾に学び、同24年に東京師範学校を卒業。番町小学校で 教えつつ夜間専修学校にて理財学と英語を修学。東京師範学校で同期だった中島長吉の学務部赴任に影響され、中島 を介して伊澤修二に希望を伝えて採用され、同28年8月12日に芝山巌の学務部に着任。年少の丙組を担当。墓は足立 区綾瀬の龍慶寺境内。

 中島長吉(なかじま・ちょうきち)25歳 群馬県 明治4年(1871年)1月1日、中島菊末の次男として群馬県碓井郡五料(安中市)に生まれる。8歳で五料小学校に入学 するも飛び級で11歳にて課程修了後、英語を学ぶ。同21年に東京師範学校に入学後は桂金太郎たちと音楽グループを 結成し、中国への関心を深めて中国語も学んで同25年に卒業。同28年2月に陸軍省通訳官となるも、台湾総督府民政局 に転属し学務部員。乙組を担当。明治30年1月1日、伊澤修二の篆額による「中嶋長吉之碑」が建立、同年12月6日に町 祭が行われている。

 井原順之助(いはら・じゅんのすけ)23歳 山口県 明治5年(1872年)3月1日、旧岩国藩士の井原左右助の長男として山口県玖珂郡川下村(岩国市)に生まれる。同23年 に岩国学校を卒業後、山口高等中学に入学するも、県知事書生に推されて退学。この間、英語、仏語、露語を学びつ つ海軍兵学校を受験するも視力不足で不合格となる。同28年5月に陸軍省雇員として大本営付きを命ぜられ、台湾総督 府随員となり訪台。甲組を担当。赴任早々に台湾語研究に熱中し習得。母が明治37年に、父も同44年に他界。養子が 井原家の後を継ぐ。

 平井数馬(ひらい・かずま)17歳 熊本県 明治11年(1878年)7月26日、平井新平の四男として熊本県益城郡松橋町(宇城市)に生まれる。手取小学校高等科を 終えて中学済々黌に入学。明治28年1月、中国語の通訳を志望して九州学院支那語科に入学して6月に修了。通訳を志 願するも年少のため不可。同年8月、台湾総督府の学務部員として舎監を務める一方、「語学の才能に非凡なものがあ ったと感じさせる」(篠原正巳氏)と高評の『軍隊憲兵用台湾語』を著す。お墓と「芝山巌殉国之士平井数馬先生之 碑」は熊本市内の小峰墓地。

※この記事はメルマガ「日台共栄」のバックナンバーです。