本年は、明治29年(1896年)1月1日に起きた芝山巌事件から125年という節目の年に当たり、熊本の平井数馬先生顕彰会(白濱裕会長)は去る2月1日、六士先生の一人で、熊本出身の平井数馬(ひらい・かずま)の事績を顕彰する歿後125年式典を熊本市内で行った。この催しは、国家百年の計と言われる教育の再生に向け、「芝山巌精神」に教育の根本的なありかたを学ぶことを目的とし、熊本国文研と日台交流をすすめる会が協賛している。
まず、李登輝元総統も2009年ご来日時に参拝した熊本市内の小峰墓地にある平井数馬の墓前において慰霊祭を行い、陳忠正・台北駐大阪経済文化弁事処福岡分処処長が挨拶。
その後、熊本大学に場所を移し、陳忠正処長が李元総統が台湾を民主化に導いたことを中心に講話。また、郷土史家の増田隆策氏が「平井数馬とその時代」と題して講演、平井数馬の生涯を詳しく解説した。この模様は読売新聞や地元紙の熊本日日新聞でも報道され、台湾新聞も詳しく報道しているので下記にご紹介したい。
ちなみに、芝山巌事件で非命に斃れた六士先生とは、楫取道明(かとり・みちあき、山口県)、関口長太郎(せきぐち・ちょうたろう、愛知県)、桂金太郎(かつら・きんたろう、東京府)、中島長吉(なかじま・ちょうきち、群馬県)、井原順之助(いはら・じゅんのすけ、山口県)、平井数馬(熊本県)の6人で、明治31年(1898年)秋、靖國神社に合祀されている。
そこで芝山巌事件から120年にあたった2016年6月、本会は楫取道明の令孫で、本会の小田村四郎・名誉会長をはじめとするご遺族に集まっていただき、靖國神社において「六士先生・慰霊顕彰の集い」を開催した。
また、前年の2015年2月には、平井数馬先生顕彰会が平井数馬先生顕彰祭を行い、平井数馬ご遺族の平井幸治氏に講話していただいている。
10年ほど前からは、関口長太郎の顕彰活動も愛知県岡崎市で毎年11月に行われており、節目の年の今年は改めて六士先生の事績に着目する動きがありそうだ。
—————————————————————————————–台湾近代教育の先駆者「平井数馬先生」没後125年式典【台湾新聞:2020年2月13日】https://taiwannews.jp/2020/02/%e5%8f%b0%e6%b9%be%e8%bf%91%e4%bb%a3%e6%95%99%e8%82%b2%e3%81%ae%e5%85%88%e9%a7%86%e8%80%85%e3%80%8c%e5%b9%b3%e4%ba%95%e6%95%b0%e9%a6%ac%e5%85%88%e7%94%9f%e3%80%8d%e6%b2%a1%e5%be%8c125%e5%b9%b4/
日本統治下の台湾で近代教育の先駆けとなった6人の教育者(六氏先生)のうち、熊本出身の平井数馬の没後125年の式典が2月1日、熊本市の小峰墓地と熊本大学で行われ、大勢の人々がその功績に思いを馳せ、遺徳をしのんだ。
「平井数馬先生顕彰会(白濱裕会長)」が主催し、「熊本国文研」と「日台交流をすすめる会」が協賛したもの。
2009年(平成21年)には李登輝・台湾元総統がわざわざ小峰墓地を訪れて献花するなど、平井数馬に対する台湾の人々の感謝の念は絶えることが無く、今年も陳忠正・駐福岡台湾総領事が墓参に訪れ、記念講話を行った。
墓参の後、「台湾近代教育の礎を築いた熊本出身の教育者・平井数馬先生に学ぶ」と銘打った講演会において、主催者を代表して挨拶した白濱裕氏は、明治28年(1895年)、日清戦争の後、日本が領有することとなった台湾の近代教育は、日本全国から選ばれた6人の優秀な教師によって台北北郊の士林に作られた「芝山巌(しざんがん)学堂」という学校で始められ、台湾人子弟と寝食を共にしながら、心魂を込めて教育に当たったこと。そしてこれが「芝山巌精神」と呼ばれていること。
その中の一人であり、熊本・済々黌出身の平井数馬は、17歳という若さながら語学が堪能で、短期間のうちに「日台会話集」を編集するなど、その才覚を発揮したこと。しかしながら、明治29年元旦、彼らが約百人の匪徒(抗日ゲリラ)に取り囲まれ、全員が惨殺されてしまったこと。
彼らの教育は1年にも満たないものであったが、この悲報が伝わるや、その遺志を継ぐべく全国各地から次々に有志の教師達が渡台して台湾全土で献身的に子供たちの教育に従事し、熊本からも延べ2千名を越える教師が渡台したこと。その結果、大正期後半には、台湾における公学校、小学校教員のほぼ1割を熊本県出身者が占めて、台湾における教育は劇的な発展を遂げ、現代の先進国台湾を築く基となったこと。
平井数馬の没後125周年を迎える節目の年に当たり、国家百年の計と言われる教育の再生に向け、「芝山巌精神」に教育の根本的なありかたを学ぶ必要からこの講演会を企画したことなどを述べた。
次いで講話に立った陳忠正・駐福岡台湾総領事は、かつて小峰墓地に平井数馬の墓を訪ねた李登輝元総統が24年前の1996年3月に台湾で中華民國史上初の総統直接選挙を行い、民主化を成し遂げるに至った考え方や実行のいきさつを中心に話を始めた。
李登輝総統が国民に台湾の真実の歴史を学ばせることによって、台湾アイデンティティを確立させたこと。「天下為公(天下は公のため)」という信念から私心を捨て、ただ「台湾の人々に枕を高くして寝させてあげたい」という強い思いを貫いた結果、紆余曲折を経ながらも一滴の血も流さず民主改革を成功に導いたこと。
また、日本の新聞のインタビューで「日本の首相には日本だけでなくアジアの最高指導者のつもりで行動してほしい。日本の浮沈はアジアの浮沈につながるといっても過言ではないからだ。自由かつ民主的で、経済的にも先頭を行く日本こそアジアの盟主として引き続きこの地域を引っ張っていくべきだ」と期待を寄せたこと。などを紹介し、台湾と日本は運命共同体であり、日本あっての台湾、そして台湾あっての日本であると述べ、平井数馬を含む六氏先生が植えつけた台湾と日本との心と心の交流、魂と魂の交流が、今日の両国の友好関係を支えているのだと思うと結んだ。
次いで「平井数馬とその時代」と題して演壇に立った増田隆策氏(文筆家・郷土史家)は、膨大な調査資料をスライドで示しながら、「幼少年期」、「渡台」、「芝山巌学堂」、「日台会話集」、「遭難」、「慰霊」、「平井家の家系図」と順に説明したが、その内容は一般聴講者のみならず、平井家の親族にもはじめて聞くようなことが含まれているほどの綿密なものであった。
講演の最後に平井数馬の兄幸三郎氏の孫である平井幸治氏が挨拶に立ち、没後125年の今日においてなお、故郷熊本の人々や台湾の方々に墓参や追悼の会を開催してもらい、大叔父数馬はきっと喜んでいるであろうと述べるとともに、自分たちも偉大な先人の親族として、誇りをもって生きていくつもりであるので、今後ともご支援をお願いしたいと結んですべての式典を終了した。
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